溢れる情熱は、誰にも止めることは出来ない。~愛しのフランキー・ヴァリさま その③~ [音楽の話]
毎日毎日暑いですが、もうそろそろ8月も終わるのですね。
8月が終われば9月・・・。
そう。私にとって今年の9月は、単なる9月ではない!!
愛しのフランキー・ヴァリさまのコンサートがある月なのだ!!(毎回ヴァリさまネタになると、愛が溢れ過ぎて、ブログの入りが暑苦しくてすみません・・・)
「フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ」ネタ、第3弾です。
今回もムダに暑苦しい「フランキー・ヴァリ」 愛、満載でお送りします。
そのフランキー・ヴァリさま関連のイベント、先日8月22日、東京、武蔵小山アゲインというライヴハウスでの、『ようこそフランキー・ヴァリ! フォー・シーズンズ来日記念トーク』に、参加して来ました。
今回のトークイベントの主宰者が、私がフランキー・ヴァリ氏のファンになってからネットで発掘した、コアなブログの作者、S氏だったので、どうしても参加したかったのだ。
S氏とは面識もなく、私が一方的に氏のブログにコメントや質問を寄せている関係である。
何せS氏のブログは、あまりにも内容が音楽専門的で造詣が深く、私のような、さして音楽に関心のない者など近寄ってはいけないのではないかと恐れおののくほどのブログ。が、元来、空気を読まない私。コアなコメントに混じって、素人丸出しのコメントを入れる。しかし、そんなコメントにも分け隔てなく、丁寧に回答してくださり、的確なアドバイスもくださる。
S氏は、そんな広いお心の持ち主なのだ。
実は、今回、生まれて初めて自分からコンサートに行きたいと強く望んだのだが、如何せん、初めてのことなので、チケットの買い方がわからない。
「先行販売」と「先行予約」の違いって何?
S席とA席って、どう違うの?
電話とネット、どっちで買うほうがいいの?
何社も売りに出してるけど、どこで買うのが一番間違いがないの?
巷ではよく、「チケットが手に入らない」とか言うけど、もしかしてチケットって、音楽関係者だとか、ファンクラブとかに入ってないと買う権利もないの? 一般客には売らないの?
もう実に、「チケットって何なの?!」と思うくらい、???だらけなのだ。
人生の中には、いくつになっても「初めて」のことはある。
人間は、わからない問題に出会う、その瞬間、頭の中は真っ白。フリーズ状態になる。
その時、神にすがる思いでS氏のブログコメントでお伺いを立てると、実に丁寧に適切な回答をくださったのだ。
で、無事チケットは買えたわけでして。
しかしチケット業界は初心者に冷たい。
買い慣れた人しか買えない感がある。
「一見さんお断り」と張り紙のある店のような、閉塞感。
頑なさというか、機械的というか。福袋の中身が入ってないような。
情報を開示せず、閉鎖的で、説明もない。
期待させておいて、突き落とす、そんな感じ。
チケットを「売ってやっている」という感じ。
売り方のシステムに問題があるのか、売る人間に教育がなってないのか。
タマゴが先かニワトリが先か、の話をクドクド書くと膨大な長さになってしまうから書かないけれど。・・・って言いながら、結構書いてる?(笑)
私が受けた、初めてチケットを買った感想。
たぶん、もう二度とチケットは買わない。フランキー・ヴァリさまが再来日しない限りは。
と、思っていたのに、今年は「コンサートyear」なのか、何と活動を再開したサザンオールスターズの茅ヶ崎ライヴに誘われてしまった!! あのプレミアチケットと言われている茅ヶ崎ですよ。一体、どうやってチケット買ったんだろう・・・?
しかも、8月31日!!
困るわっ!! 私の人生初コンサートは、フランキー・ヴァリさまに捧げるって決めてたのに!! ・・・って、そんなこと、相手にとっちゃ、どーでもいいことですね(笑)
いや、でもまぁ、誘われたからには行きますけどね、サザンの茅ヶ崎ライヴ。
もちろん楽しんできますさ!!
でも、人生の中で、今まで一度も大きなコンサートに出掛けたことないのに(小さなライヴハウスで照明を当てることならあるけれど)、どうしてこう重なるときは、一度に重なるんだろう・・・?
さてさて。
フランキー・ヴァリさまのイベント話に戻りましょう。
今回のS氏のイベントは、フランキー・ヴァリ氏のコンサートの次に、楽しみにしていたもの。
イベントの内容もさることながら、S氏にお逢いすることが出来るのですからね。
彼のブログの文章、及び、文脈や文字の行間から察する人物像は、生真面目で、多少、人見知りをするタイプにお見受けする。理性的で、すぐにカッとなるような感情的な人物ではなさそう。かと言って、冷たい印象は受けず、彼の研究するピアソラのタンゴ同様、たぎる情熱、ユーモア、優しさ、その感情のすべてを、皮膚の一枚下に隠し持っている感じがする。だけれど表面的には、博学で無口な、大学の教授タイプ。・・・かな。
物書きのサガなのか、こうやって想像している時が一番楽しい。そして、その想像が、当たらずとも遠からずであったとき、不思議な気持ちになる。
私のブログを通して知り合いになって、初対面を果たしてきたひとたちもそうだった。
文章から察する人物像は、ほとんど間違いがない。
人の書く文章、文字の行間には、「そのひとそのもの」が表れる。
私は直感で人を見る。
「このブログの文章が好きだ」と思うのは、「その人が好きだ」と同じことだ。
去年、大阪での舞台公演のときにお逢いした、だい吉さんも、ひと目見た瞬間、「だい吉さんだ」とわかった。
ブログの中では知っていても、生身の人間として知らない人。
自分の中で、二次元の世界の人が、三次元になる瞬間。
もちろん、彼はもともと二次元の人ではなかった。
彼の文章にも、文字の行間にも、ちゃんと温かい「血」が通っていたのだから。
文章には、温度がある。
人の書く文章には、体温がある。
だからこそ、それを書いたひとに逢える瞬間は、いつも不思議な気持ちになる。
「はじめまして」じゃなく、「やっと逢えましたね」
そう言いたくなる。
今年が「コンサートyear」なら、去年は、私にとって「演劇year」だった。
劇団摂河泉21さんの、本公演用の脚本を書かせていただいたし、好きな脚本家の舞台を、東京まで観に行ったりした。
脚本を書く、というのは地味な作業である。
セリフ一行書き直すのに、どれだけ前後の書き足し、削り、といった直しが必要か。
何稿も何稿も書き直すのは、苦しくもあった。
しかし、好きだから頑張れる。
自分の作り出した二次元の世界の住人を、三次元に送り出せるのは私だけだ。
そう思えるからこそ、寝る時間を惜しんでも書き続けられるのだ。
脚本とは、二次元から三次元への架け橋。
私はそう思ってる。
劇団員さんたちの稽古を見せてもらったとき。
脚本家としての情熱のバトンを、演出家の先生と、役を演じてくれる役者に託した結果が、今、目の前にある。
頭の中で生み出した二次元の世界の住人が、血を通わせて、目の前に立っている。
私は、そっと心の中でつぶやく。
「やっと、逢えたね」
ネットの向こうにいる人は、文字だけの関わりであっても、三次元の人間である。
想像の中では二次元でも、逢った瞬間、二次元から三次元に変わる。
今回のS氏もそうだった。
想像した人物像と大差はなかった。
ただ、想像したよりも、もっと人見知りをなさる方なのかも。
それとも、私という人間があまりにも不審者ゆえ、敬遠なさったのか(笑)
人間には、他人との距離を測る「パーソナルスペース」というものがある。
私には、そのパーソナルスペースなるものが極端に小さく、初めて逢った人とも、間近で話すことが出来る。私にあるのは、その人を、「好き」か「嫌い」か、その感情の選択だけだ。
S氏は、少しパーソナルスペースが大きいようだ。
誰と話すときも、コメントで分け隔てなく公平なように、薄いベールを隔てて話す。そのベールが薄いか厚いかは、付き合いの深さ、長さか。私のように、「好き」か「嫌い」か、の感情の選択かもしれない。
このパーソナルスペースについて書き始めると長~くなるので、別の機会に。
さて。S氏の印象。
博学で無口な大学の教授のよう・・・と思ったのは、ほぼ間違いなく(笑)
S氏のトークは、まるで大学の講義を拝聴しているようだった。もちろん、会場は皆、フランキー・ヴァリ氏が好きで集っているのだから、その講義は面白くてたまらない。S氏のブログで予習済みであったことも幸いしたが、私のような初心者にも分かるような内容で、マニアック過ぎるということもない。
そして。
特筆しなければならないのは、今回S氏のトークのお相手をなさっていた、Tさんという女性。
彼女は、フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズの軌跡を題材としたミュージカル、「ジャージーボーイズ」の大ファンで、年に二回ほど、ブロードウェイに観劇に行かれるという、筋金入りのファンの方である。
ご本人は、「単なるミーハーです」とご謙遜なさっていらっしゃったが、話には、「ヴァリさま愛」が溢れていて、実際に「ジャージーボーイズ」のミュージカルを見たことがない私でも、その情景が浮かんでくるような魅力的なトークを披露してくださった。
このTさんのことを語らずには、今回のブログは締めくくれない!!
まず、入り口でパンフレットをもらい、席に着こうとしたとき、目の前に座っていらしたのが、Tさん。(S氏はイベントの準備に勤しんでおられました)
ひと目見たとき、時間は中学時代にタイムスリップした。Tさんは、中学時代の国語の先生に似ている。(当時の先生に、なので、もちろん別人なのは必至ですが)顔・・・というよりも、おそらく彼女の醸し出す雰囲気や物腰が、遠い中学校時代の日々を思い起こさせる。
その中学の国語の先生は、私に「物語を書く」という楽しさを教えてくれた人。一番最初に物書きの世界に導いてくれた人と言っても過言ではないかもしれない。
軽く会釈だけして、ドキドキしながら、とりあえず席に着く。
まだ店内は、人もまばら。
S氏にも、先生に似ているTさんにも、声を掛けて話すなら今がチャンスだが、イベント前で緊張なさっているときに話しかけるのは失礼に当たらないか? 準備に専念されたいときに邪魔じゃないか? いくら空気を読まない私でも、それくらいは考える。
いや、それよりも。・・・実は、誰も信じてくれないが、私は「超人見知り」なのだ。
「人好きの人見知り」
誰に言っても信じてもらえないが、これが私の本当の姿。
人と話すのが怖くてたまらない。だけど、人が好きで人と話さずにいられない。
何という極端に相反する思いが同居してる、複雑怪奇な性格なのか。自分でも時々、自分の性格が嫌になる。しかし、これが一生付き合っていく「私」なのだから、仕方ない。
私が「空気を読まない」のは、空気を読むと、考え過ぎて何もしゃべれなくなるからだ。
Tさんに、名刺を渡した瞬間、彼女の口から意外な言葉を聞いた。
「このブログ、知ってるわ」
私の名刺には、ネット上の名前、「猫たぬき」と、ブログのURLが印刷してある。
実は彼女、私のこのブログの読者だったのだ!!
フランキー・ヴァリさまへの暑苦しいほどの想いが詰まった前回の記事を、読んでくださっていたのだ!!
何たる偶然。写真も絵もない文字だらけの、愛想もへったくれもないブログの、リアル読者に逢えるなんて!!(だってだって、S氏のような緻密にヴァリさまのことを書いてるブログじゃなく、単に暑苦しい恋心を綴っただけなのに。例え「フランキー・ヴァリ」で検索しても、絶対引っかからないと思うんだけど・・・)
Tさんには、私のこの暑苦しい「ヴァリさま愛」が伝わっていたようで、人見知りも何のその、すぐに彼女のことが大好きになった。私の「好き」に性別の隔てはないので、男でも女でも、相手のことを好きになると、ずっと一緒に居たくなる。Tさんは、話せば話すほど、人柄の良さが見えてきて、ずっと話していたくなる。
ほんの少し自分に似た匂いを感じたり、私とは全然違う行動力が見えたり、「このひとのことをもっと知りたい」と思う。
好きになったら、すぐに懐いてしまうので、相手の取り方によっては「馴れ馴れしい」と思われることもある。本当は、S氏のように、きちんとパーソナルスペースを取ったほうが、人付き合いは上手くいくのかもしれないが、これも性格。Tさんが、不快な思いをなさってないことを祈ろう。
お互い遠くから来ていたので、当日は東京にお泊り。
彼女は東京、私は新宿で宿を取っていたので、駅までご一緒させていただいた。
駅までの距離で話せることなんて、たかが知れてる。もっと話していたいから、山手線をぐるりと一周して、東京駅までお供させていただくことにした。どうせ山手線はぐるぐる回っているのだし(笑)
ホントは、どこか遅くまで開いてるお店で、オール上等!! な気分なのだけど、彼女はイベントでお疲れだろうし、初対面で好きを暴走させちゃいけないことくらいには、人生を長く生きている。
電車の中で、ジャージーボーイズのことをたくさん伺った。
彼女は、先代のフランキー・ヴァリ氏役の役者さんが大好きで、彼の別の舞台を、ブロードウェイではなくコネチカットまで観にいったそうだ。ものすごい行動力!!
その彼は、「舞台の上から、キミの姿を探すよ」と言ったそうだ。何て素敵!! そりゃそんな殺し文句のセリフを言われたら、観にいかずにはいられませんわな!!
彼女の、キラキラした表情と語り口調は、ヴァリ氏が音楽を語るときと同じ。
好きなことを語っているときが、人間、もっとも輝くのである。
そういえばS氏も、トークの合間に、ヴァリ氏の音楽を流しているときは、身体全体で音楽にノッていたのを思い出した。
今回のイベントの主宰者S氏も、Tさんも、ものすごくバイタリティーがある。
「好きなものを極める」というのは、情熱がなければ絶対に出来ない。
極めることに終わりはない。情熱がある限り続く。
かの天才、手塚治虫氏は、死ぬ間際まで鉛筆を手放さなかったという。
溢れる情熱は、誰にも止めることは出来ない。
今も現役で、さまざまな地でコンサートを続けるフランキー・ヴァリ氏も、おそらくずっと歌い続けてくれるだろう。
あの甘い歌声を、声の続く限り聴かせてくれるだろう。
情熱は、誰かのためにあるものではない。
自分が、それを好きで、そのためには、どんな苦難も厭わない。
好きという想いがすべての原動力であり、その想いが溢れ出て、人の心に響き、感情を揺さぶるのだ。
9月13日、フランキー・ヴァリ氏は、海を越えて、初めて日本の地に降り立つ。
どんな情熱をほとばしらせ、我々ファンを、一夜の夢に酔わせてくれるだろうか?
私たちファンは、どんな情熱を持って、客席から彼を見上げるのだろう。
言葉の壁を乗り越えて、イベントのタイトル通り、「ようこそ、フランキー・ヴァリ!」と、彼が心地良く歌えるような空間を作り上げることが出来るだろうか?
さて。
せめて、S氏の助言通り、「Can’t take my eyes off you」と、「Let's hang on!」だけは、ヴァリさまと一緒に歌えるよう、英語の歌詞を理解しておこう。
想いは夢を駆け巡る。~愛しのフランキー・ヴァリさま その②~ [音楽の話]
夢でもし逢えたら、素敵なことね。あなたに逢えるまで眠り続けたい♪
・・・という歌が昔ありましたね。
好きだなぁ、この歌詞。
さて。
前回、愛しのフランキー・ヴァリさま その①は、彼の音楽との出逢いについて書きましたが、本日はちょっと不可思議な現象について書いていきます。
本日も「フランキー・ヴァリ」 愛、満載でお送りします。
「フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ」ネタ、第2弾♪
その前に、恒例の長~い前フリにお付き合いくださいまし^^;
人は眠っている間に、夢を見る。
何度か書いているので、覚えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、私は1年中、ほとんど毎日夢を見る。365日中、350日は確実に見る。もちろん、夢の内容をすべて明確に覚えているわけじゃない。ほとんど覚えていないこともある。しかし、断片的にでも何かしら夢の記憶があり、朝起きて、まったく夢を見なかったと思う日は1年に数えるほどしかない。(よほど体が疲れていたか、熱があるなど身体に不調があったか、くらいしか覚えがない)
以前、どこかで聞いたことがあるが、日本人は生真面目さゆえに、夢を、それも悪夢を見やすい性質を持っているのだという。
外国人のように、寝る前にハーブティーを飲んだり、寝室を間接照明にしたり、アロマキャンドルの中で本を読んだりしてリラックスモードに入ってから眠りにつくのと違い、日本人は、眠る直前までパソコンで仕事をしたり、資料を読んだり、はたまた、1日の仕事の反省をしたり。明日のスケジュールを確認する、シュミレーションするなど、仕事や学校での出来事、現実を引きずったまま眠りにつくからなのだとか。
悪夢、とはまでは言わないが、私はなぜ毎日夢を見るのか? と、考えてみたところ、非常に寝つきの悪いことが要因かもしれない。眠るまでに時間がかかるタイプ。睡眠障害・・・とまでは思わないが、日によっては、眠りに落ちるまで何時間もかかることがある。(そんなときは、眠るのを諦めて起きることにしている)
眠りにつくまでの時間がもったいないと思ってしまう貧乏性ゆえ、書いているシナリオの続きとか、何かしら物語を考えながら眠りにつくことが多い。あるいは、その日見た映画やドラマのことを思い返してみたり。なので、夢もストーリー性を帯びていることが多々ある。
子供の頃からずっと見ていたジャッキー・チェン映画の影響なのか、レイモンド・チャンドラーの影響なのか、アクション映画やのような夢、ハードボイルドなミステリーの夢を見ることもある。夢の中なのに、銃で撃たれると結構痛い。(数日後に撃たれたところに青タンが出来てるのを見ると、夢と現実はシンクロしていて、夢で撃たれたときには、現実にはベッドの角とかにぶつけてると思われる・・・。寝ながらどんだけ暴れてるんだろうか・・・?)
さすがに夢だから、爆発に巻き込まれても、銃で撃たれても死なないけれど、甘いラブストーリーにはまるで縁がなく、前世で何の悪いことをしたんだか、殺し屋に命を狙われるようなサスペンスストーリーが多いのは、現実とシンクロしてる??? 敵が多すぎる性格ゆえかしら・・・(泣)
しかし、そんなスペクタクルな夢を見ても身体が疲れるわけではなく(当たり前?)、寝起きのタイミングにさえ気をつけていれば、疲れが残るとか、眠いとかいうことはない。
時々、目覚めてもすごくはっきり覚えている画があって、そのままシナリオになるんじゃないか? と思うこともある。しかしながら、物書きのくせに、書き留めるという習慣がなく、数日後にはキレイさっぱり忘れているのですが・・・。(ダメダメやん)
ストーリーだけじゃなく、夢で現実の続きを見たりするときもある。
例えば、友達と口げんかしたり、何か対人関係のトラブルがあった日は、そのことを思い返しながら眠りにつくので、まるでリプレイのような映像や、はたまた現実かと思うほど鮮明に、自身の反省を促すような説教的ストーリーの夢を見たりする。
そういう夢は、起きてもほとんど正確に思い返せるほどしっかり覚えている。(罪悪感が見せる夢なのか、夢の中だと素直に反省出来るのかわからないが)
夢とは思えないほどリアルだったりすると、現実に、夢の続きが展開されるのかと、夢を見た数日間は同じ失敗をくり返さないようにしようと、言動に慎重になったりする。(が、すぐ忘れる・・・)
さて。
眠りについても少し考えてみる。
他の人は、眠っている間のことは、夢を見る以外に何か、例えば、感覚などを覚えているものだろうか。
私は眠っている間は、どこか身体が深く沈んでいるように感じている。
目を瞑り、ストーリーを頭の中であれこれ考えている時間から、ストンと眠りの時間に陥る。その交差する瞬間を覚えてるわけではないが、意識がなくなると同時に、身体がどこか深いところへ沈み込んでいく気がする。
なぜなら、眠りから覚める瞬間、どこからか身体が浮上する感覚が必ずあるからだ。
時折、人間とは、眠っている間は現世と離れ、意識だけではなく、身体ごと別の次元へと浮遊しているのではないか、と思うことがある。
明け方に夢を見ている場合、その感覚を一層強く感じる。
夢に必ず結末があるか、というと一概にそうではなく、夢が外界の音に反応して、あっちこっちに話が飛んで、ストーリーとしては全然まとまらないまま眠りから覚めるときもある。どちらにしても、目覚める前に、身体が浮上してくる感じで、閉じている目の裏が明るくなったら自然と目を開く。
先ほど、「目覚めのタイミングに気をつければ」と書いたが、それが、この「身体が浮上する感覚」のことである。
それは眠る時間の長短ではないらしい。
たった3時間でも、身体が浮上してくるときもあるし、10時間寝ても深く沈んだままのときもある。だから、決まった時間に目覚ましの機械音で強引に目を覚まさせられるのが一番辛い。身体が重く沈んだままの状態で、夢の世界から強制的に引き戻されると、一日中身体が重い。
少し話はそれるが、中学生のとき、あまりにも偏頭痛に悩まされた時期があったので、さすがに親が脳腫瘍などの心配をして脳神経外科にかかったことがある。
ま、結果は今の歳まで生きてるのだから、当然、重大な病気ではなかったのだけれど、偏頭痛はそれからもなかなか治らなかった。特別に異常があるわけでなく、医者の診断は「体質でしょう」という、何度も検査した割には、何とも曖昧な診断結果だった。(だから病院って嫌い・・・)
その時の問診の様子を鮮明に覚えている。
医者が母親に問うたのは、「彼女は朝、きちんと目覚められますか?」というものだった。
その質問にうちの母親はバカ正直に、「いえいえ。毎日叩き起こさないと起きません」と、答えた。(他に言いようはないのか・・・)
そうすると、医者はしばし黙り、「無理に起こすのは止められた方がいいですね。自分で目覚めるまで起こさないほうが」
と、言いかける医者を遮るかの如く、「先生、この子が自分で起きるの待ってたら、毎日学校に遅刻しますから」と、我が母親は医者を絶句させたのだった。(う~ん、この「余計なひと言を言う」という悪癖は、我が家の呪われた遺伝としか考えられない・・・)
その時は深く考えなかったのだが、この時医者の言った、「偏頭痛と目覚めの関係」は、確かに重要なのではないか、と思っている。
きちんと身体が浮上してから起きる日は、不思議と偏頭痛にならないことが多いからだ。
適切な眠りは、すっきりとした目覚めを連れてくる。
そして、夢は。
夢は、不可思議な現象を、現実にする鍵を握っている。
さて。お待たせしました。やっと本題です^^;
「夢」について。
夢占いや、夢診断、吉夢や凶夢など、日常生活に影響を与えることを教えてくれるのも夢だが、人はなぜ夢を見るのか? 夢の正体は何なのか? 夢はどこからやってくるのか? というメカニズムは、未だ解明されていない。
私は365日、ほとんど毎日のように夢を見る、と冒頭で書いたが、その夢は当然毎日違うもので、昨日の夢の続きを今日見る、という器用なことも、もちろん出来ない。
しかし、である。
そんな私の夢事情も、フランキー・ヴァリ氏の存在を知ったときから、ある変化が起きた。
BS-TBSで放送していた音楽番組「SONG TO SOUL~永遠の一曲~」の番組の中から、私はいろんな情報を得た。
彼らの青年時代のことを題材にしたミュージカル、「ジャージーボーイズ」がアメリカで何度も上演されていること。
フランキー・ヴァリ氏は、今も現役で公演をしていること。(放送のVTRでは、2012年1月18日のコンサートの模様が映し出されていた)
好きになったらとことんしつこいタイプ(笑)
もっとフランキー・ヴァリ氏の情報を得ようと、あらゆる情報を探した。
発売されているCDや、ミュージックビデオなどの情報、ネットでは、彼のものすごくコアなファンが、彼らの活動を詳細に綴るブログも発見した。
しかし、そのブログにはこう書かれていた。
「フランキー・ヴァリ氏の来日は未だ一度もない」、と。
あれだけ一世を風靡したヒット曲がありながら、日本では一度も公演をしていない。
ミュージカル「ジャージーボーイズ」も、もちろん日本で上演されたことはない。
なぜ?!
・・・と、いうことは。
生身のフランキー・ヴァリ氏の声を聴きたければ、アメリカへ行くしかないのだ。
出来ることなら、一生、日本語の通じないところへは行きたくないと思っている私。
日本語でさえ意思疎通の難しい私が、言語の違いがあるところで、上手くコミュニケーションを取れるわけがない。と、断定出来る。
だとすると。
どんなにどんなに逢いたくても。
どんなにどんなに声が聴きたくても。
諦めなきゃならないことが、この世にはたくさんあるわけで・・・。
しかし。
しかし、である。
この「フランキー・ヴァリ氏は来日したことがない」、という事実を知ったそれからほどなくして、私の夢に不可思議な現状が起こり始めたのだ。
ほぼ毎日と言っていいほど、フランキー・ヴァリ氏が、夢に出てくるようになったのである。
ヴァリ氏は、椅子かソファかに座って、こちらを、ただ見つめて微笑むだけで、何かを語りかけることはない。その顔は、BS-TBSに出演していた通り、今の年齢のフランキー・ヴァリ氏に間違いなく、私は彼から少し離れた場所に立っている。(と、思われる)
対面する位置から、ただ同じように見つめるだけで、お互いひとことも話すことなく夢から覚める。
夢の時間は長いときもあり、数秒のときもある。夢の時間が長いときは、ヴァリ氏が何かを言いかけるように口を開くときもあるのだが、その声は聴き取れない。
その夢は、まるでBS-TBSで見たインタビューの続きのようであり、私が何か言ったことに対して、答えをくれたように思う夢である。
夢を見るのは必ず目が覚める直前。
身体が浮上してくる感覚がして、視界がぼんやりとし始める。
ヴァリ氏の姿が霞んで見えなくなると同時に、目が開く。
もちろん、毎日見るわけじゃない。
しかし、目覚める直前に見る夢だから、見たときは必ず覚えている。
夢のシチュエーションは変わることなく(時間の長短があるだけで)、ヴァリ氏は必ず座っている状態で、こちらを見ている。
私は何を問うたのか?
彼は何と答えたのか?
何度夢を見ても、声は聴こえない。
「ファンになったから、そんな夢を見るんちゃうん」
そう言われた。
確かに。
そう考えるのが一番正しい。
しかし、見る回数が増えるごとに、「本当にそれだけなのだろうか?」と疑問符がつく。
今まで、どんなに好きな人が現れても、毎日のように夢をみることなんてなかった。
誰かと付き合うようになっても、その人が同じシチュエーションの夢で登場するなんてことはなかった。
過去の夢を遡って考えても、「好きだから夢に見る」というわけでもなさそうだ。
幾度、同じ夢を見ただろう。
必ず目覚める直前に見る夢。
見るたびに時間は短いことが多くなり、ただ、ヴァリ氏の微笑んだ顔だけを見ることもあった。
映像で見た、私の最も好きな表情。
フランキー・ヴァリ氏は、インタビューにこう答えていた。
「こんなに長く続けられたことが信じられないよ。なんて素晴らしいことだろう」
「私は出来る限り音楽を続けたい。あと数年だとしても感謝するよ」
音楽のことを語るとき、彼は眼鏡の奥の目をキラキラと輝かせ、とても78歳とは思えないくらい少年のような表情になる。
私が人を好きになるとき、必ず惹かれるのが目だ。
目の輝きは、その人の本質が映し出される。
フランキー・ヴァリ氏は、本当に歌が、歌うことが好きなのだ。
インタビューは続く。
「人生のすべてに感謝している」
ああ・・・。
やっぱり私はこのひとが好きだ。
順風満帆な人生などありはしない。
どんな人の人生にも、苦難はある。
そのすべてに感謝できる、そんな素晴らしいひとが、画面の向こうにいる・・・。
CDを買い、当時に撮影された若かりし頃の彼らの写真が、ジャケットやライナーノートのそこここに載っているが、私は若かりし頃のフランキー・ヴァリ氏より、今のフランキー・ヴァリ氏の方が好き。
「人生のすべてに感謝している」と言える、年齢を重ねるごとに洗練された彼の顔が好き。
表情が変わるたびに覗く顔の皺も、すべては彼を輝かせる魅力になる。
ヴァリ氏は、インタビューをこう締めくくっている。
「(Can’t take my eyes off you は私のために作られた曲だから)ずっと歌い続けるよ」
名曲はどれだけ時を経ても色褪せない。
歌いたいという強い想いがある限り、ずっと歌い続けられる。
いや、ずっと歌い続けてほしい。
ずっと。
本当に、ずっと。
それから毎日、フランキー・ヴァリ氏の「Can’t take my eyes off you」を聴いて過ごしている。
何度も何度も聴きたくて、CDから、この曲だけをまるごとMDに入れて聴いている。(機械音痴な私の音楽機器は、MDで時代が止まっています・・・)
何度聴いても飽きることなく、本当に一生の間、この1曲だけを聴いていたいとさえ思った。
そんなとき。
ふと、そういえば、この頃あんまりヴァリ氏の夢を見ないな・・・と思った。
そのことに気付いたのは、ある衝撃的な情報を聞いたときである。
「(フランキー・ヴァリ氏の)コンサート、東京でやるんやって?」
その瞬間。
私の中で、時間が止まった。
いや。
止まったというよりもむしろ、ものすごい速さで逆回転したように感じた。
あの夢の意味は・・・。
今まで一度も来日したことのない彼らが、どうしてこのタイミングで来日するのだろうか?
昔、来日したことがあって、再度来日するというのであれば、ただの偶然で片付けることが出来る。しかし、デビューから50年以上も経って、その間、一度も来日したことがないというのに。
なぜ、今?
しかも、1日限りの公演なのだ。
なぜ?!
夢の中で、私は、彼に何を問うていたのか?
夢の中で、彼は、その問いにどう答えたのか?
予知夢だったと言いたいわけじゃない。
だけど。
「想い」というものは、時空を超えて、現実じゃない、夢の中にまで入り込むことがあるのかもしれない、と、本気で思った。
逢いたい。
声が聴きたい。
そんな強い想いが、夢を駆け巡る。
夢は、時間も空間も飛び越える。
常識も、理論も、すべてを超越する。
「そんなバカな」「ありえない」ということさえも、可能にしてしまう。
もしかすると、知らない者同士が夢の中で出逢い、約束事を交わすことも、あるかもしれない。
私は夢の中で、架空の、もう1人のインタビュアーとなり、きっとこう問うた。
「あなたのファンは、日本にもきっと多くいます」
「だから、日本で公演をしてください」
彼はどう答えたか?
9月13日の日比谷公会堂で行なわれる1日限りの初来日公演が、その答えを示している。
もしかしたら。
私1人だけがヴァリ氏の夢を見ていたのではないかもしれない。
彼のファンすべてが、彼の来日を望み、日々、夢で願いを唱えていたのかも。
だとすると、ヴァリ氏の夢の中の人口密度は、渋谷のスクランブル交差点の比じゃないそれとなり、きっと返事も大変だっただろうと、想像するとおもしろい。
そう。
夢はすべてを可能にするのだ。
「夢は必ず現実となる」
少なくとも、これは真実だ。
私にとって。
夢が叶えられたからこそ、彼はもう私の夢の中に現れる必要がなくなったのかもしれない。
夢でもし逢えたら・・・。
もう今は、夢で逢えるまで眠り続ける必要はなく、現実に、あとひと月で、生身のフランキー・ヴァリ氏の声を、この耳で聴けるのだ。
あの、甘く蕩けるような声の洪水の中に、この身を浸すことが叶うのだ。
なんて素晴らしいことだろう。
今は、目覚めるたび、ヴァリ氏がこの空の下のどこかで公演しているのだと思うと、待ち遠しい気持ちで心が逸る。
しかし、ヴァリ氏の公演は、文字通り「一夜限りの夢」
満月の前日が嬉しいように、待っている今が一番楽しいのかもしれない。
もしも。
もしも願いが叶うなら。
もしも他人の時間を1分間だけ盗めるとしたら、私はフランキー・ヴァリ氏から時間を盗みたい。
私の願いは、フランキー・ヴァリ氏にひと目逢い、「私に見覚えはありませんか?」と聞くこと。英語で問うなら、「Do you remenber me?」となるのだろうか? 「Do you recognize me?」の方がより正確かな?(英語はまったく得意じゃないです。間違ってたら、ご指摘お願いします・・・)
常軌を逸した話、信じられない話、ありえない話。
こんな夢の話をしても、一笑に付されるだけかもしれないが、もしかしたら・・・?
私が夢で見ていたように、ヴァリ氏も、東洋人の、それもタヌキに似た丸顔の見知らぬ女が、毎晩夢の中で「来日公演しろ」と懇願する悪夢(?)を見続けていたかもしれない。それに根負けして来日したのだ、と言うのではないか、そんな愉快な想像をしている。
夢のメカニズムは、まだ解明されていない。
これは、単なる偶然か否か?
想いは夢を駆け巡る。
「ありえない!」ことが、現実になる。
もしかしたら、湯川教授にも解けない、難問かもしれない。
自分の中の常識を疑え。 ~愛しのフランキー・ヴァリさま その①~ [音楽の話]
体調の悪いとき。
シナリオにしろ、ブログにしろ、ふっと浮かんだネタ、書きたい!と思ったニュースやスポーツネタなど、キーワードだけを書いて下書きに入れる。体調が良くなったら書こう、と・・・。
シナリオはさておき、ブログは〆切という強制力がないので、ついつい後回しになる。
なので、下書きはどんどん溜まっていく。書きたいネタは溢れているのに、しっかりと書き込む時間と心の余裕がない。
特にニュース、スポーツ、時事ネタなどは、お笑いネタ同様、旬であることが前提。
「いつ書くの?」 「今でしょ!」って時を逃すと、とたんに色褪せる。
さて。
その中で、どーしてもどーしてもどーしても(3回も言うな)書きたいネタなので、下書きから引っ張りだして書きます!!
カテゴリー的には、音楽の話、かな。「私は歌に恋をする」第二弾というところ。
でもこれは「旬」というよりも、何とも不可思議で、私がいつも言っている「縁」の話のようで、どこか不思議なオハナシ。
でも、どう不思議なのか? たぶん、今回の「その①」だけ読んでもわからないかも^^;
三部作くらいになるかもなので、気長にお付き合いください。
その①は、タイトル通り、私が如何にしてフランキー・ヴァリさまのとりこになったか、という暑苦しい想いを、小ネタを交えながら語ります(笑)
「フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ」ネタ、第1弾。
というわけで、いつも通り長~い前フリがまだまだ続きます。
世の中には、「常識」というものがありますよね。
例えば、「髪を洗うのは、シャンプーが先で、コンディショナーは後」だとか、「敷布団の上に寝て、掛布団をかぶる」とか。
人が聞いて、「当たり前~当たり前~当たり前体操♪」と思うことが、いわゆる世間での常識。
しかし、世間ではどうか知らないが、自分だけの常識というものを、みんな少なからず持っている。
例えば、「オムレツにはケチャップじゃなく、ウスターソースが当たり前」とか、「歯は、歯磨き粉じゃなく塩で磨く」(これぞワイルドだぜ)、「寝るときは裸」(マリリン・モンローか?)とか。
人が聞いたら「え~?」と思われそうなことでも、自分では「普通じゃん」と思ってることが結構ある。
が、この「自分常識」というのは、時に「思い込み」、または「知識の浅さゆえ」というものもある。
人から教えられて、目からうろこ。「え~!!」と驚愕することもある。
今回、私が言いたいのは、その例。
さてさて、お疲れさまでした。やっと本題です。
「人は思い込みで生きている」
何かのCMのコピーだったと思うが、まったくその通りだと思う。
そして。
「よく忘れる」という特徴を持っているのも、人間だと思う。
その時、その時は、覚えたつもりでいても、後で思い出そうとしても、思い出せない。
例えば、運動会の100M走で必ず耳にする曲など、誰がタイトルを正確に覚えているだろうか?
以前、私が音楽を好きになるのは、たいていが「聞き流し」から、だと書いたことがある。それは幼少時代の音楽環境が大きく関連していると思っている。
うちの家は、テレビをつけていないときは、たいてい音楽が流れていた。
それも、歌詞のついていない音楽。イージーリスニングと言うのだろうか、ポール・モーリアや、リチャード・クレイダーマンなどの、個性が強すぎず、何かをしながら聴いていても邪魔にならず心地良い音楽。
母親によると、曲は何でもいいらしいが音がないと寂しいし、テレビだと画面が気になって家事に集中出来ないから、だそうで。そういう環境に育ったからか、私も同じような習慣が身についてしまった。
「勉強中はラジオを聴く」というのが定番だった世代だが、私の耳は、周りの人間が発する会話はすべてセリフに聞こえてしまうので、そちらが気になって勉強に身が入らない。(決して勉強したくないイイワケではない・・・と思う)次第に、流す音楽は限られてくる。今でも、持っているCD類は、歌詞のないタイプが多い。
シナリオを書き始めると、もっと音に対してストイックになり、人の声だけじゃなく音楽すらも耳障りに感じることがあるので、無音で書くことが多くなった。
もともと音楽に造詣が深いわけでなく、クラシックやジャズは何となくわかる。ソシアルダンスを習ったことがあるので、タンゴやワルツなどのダンス音楽も何となくわかる、という程度。それ以外は、どれがロックでどれがフュージョンで・・・など、ジャンルわけも満足に出来ない。
ライブで照明を当ててるくせに、サウンドチェックのときに音響の人の横にいて、「この音楽ってロックですか?」という間抜けな質問をしてしまうこともある。(超失礼な奴・・・)
だから音楽に詳しい人がいると、それだけで理由もなく尊敬してしまう。何かにアツイ人間は、それだけでとても魅力的なのだ。言ってることの半分もわかってないのだけど、熱を帯びた声で話す人も、その話を聞くのも、とても好きだ。
さて。
こんな音楽知識に貧困な私なので、所有するCDは人より格段に少ないと自負している。(平均が何枚くらいなのか知らないが)
たまに、街中で聴いて気に入った曲のレコードやCDを買いたくても、タイトルも歌手名もわからないんじゃ、買う手段がない。さすがに、お店でサビの部分をアカペラで歌ってみる勇気はない。
そのうちぱったり巷で流れなくなって、そのまま私とその音楽とは自然消滅ってことがままある。
だからサビの部分しか知らなかったり、「聴いたことはあるんだけど・・・」という音楽ばかり。
未だに、カラオケで十八番の曲はひとつもない。
歌手名、タイトル、曲。すべて知っていて「知ってる」というのならば、私は音楽をほとんど知らないことになる。
音感もなければ、音楽的知識もない。
音楽という字の如く「音を楽しむ」的な感じでしか、音を聴かない人間。
だからこそなのか、耳すらも我がままなのか、不快な音は敏感にわかる。
ファンの方には大変申し訳ないが、私は、きゃりーぱみゅぱみゅ嬢と、ゆず氏の声がどうにも苦手なのだ。
歌詞を聞いたらすごく良い曲なのかもしれないが、周波数の関係なのか、あの方たちの声は、私の耳には不快に届き、どうしても愉快になれない。(あと、化粧品のCMの声で、どうしてもダメなのがある。どこの化粧品かもわからない。声を聞いただけでテレビを消してしまうから・・・)
我がままと言われてもいい。
聴いて楽しくなれない音とは、絶対に付き合いたくない。
楽しくなる音だけを、ずっとずっと聴いていたい。
そういう意味で、非常にメンドクサイ人間なのである。
そんな「私と音楽の悲しい歴史」を持つ身にとって、ある革命が起こったのである。
年を経てさらにさらに素敵になった初恋のひとに、再び巡り逢えたような、そんな感覚。
BS-TBSで放送していた音楽番組「SONG TO SOUL~永遠の一曲~」を見たときだった。
この番組は、毎回ひとつの曲目を選んで、その曲が出来上がるまでのエピソードなどを、アーティスト、作詞家、作曲家、アレンジャーなどのインタビューや、制作秘話を構成して作る、とても良質な音楽番組である。
その日の曲のタイトルは「君の瞳に恋してる」
タイトルを覚えない私は、その曲が、自分が昔好きだった曲とはつゆ知らず、ただ番組の始まりのイントロが印象的で、何気なく見始めたのが、この不思議なオハナシの幕開けと言っても過言ではない。
この番組、まず最初のイントロに惹かれる。
イントロから、一枚のレコードがプレイヤーにかけられる・・・。
流れてきた曲は、聴いたことのある英語のフレーズ、そして、フランキー・ヴァリ氏の声。
そう、例えるなら。
赤ちゃんの、その柔らかな頬に指で触れ、眠りから覚まさないようにそっと耳元で囁くかのような優しい声。その声は甘く、かといって決して甘すぎず、耳を心地良く撫でる羽根のようなやわらかさをもって、私の耳に流れ込んできた。
私の少量の音楽メモリーの中にはなかった声。
しかし、この歌詞には覚えがある。絶対、聴いたことがあるはずなのだけど・・・。
曲のタイトルは「Can’t take my eyes off you」 邦題は「君の瞳に恋してる」
番組が進んでいくにつれて、事実が判明した。
私は、子供の頃に聴いたカバー曲を、原曲と思い込んでいたのだ。
私が知っている歌は、ボーイズ・タウン・ギャングというバンドが歌っていたカバー曲の方だった。(う~ん、タイトルどころか、誰が歌っていたかも今初めて知った・・・)
当時流行っていたディスコ(今はクラブって言わんと通じないね)ダンスミュージックに編曲された、アップテンポな曲だ。
そういえば当時も、サビの部分の「Oh,pretty baby~♪」という歌詞を聴くたびに、「女性ボーカルが、どうして相手に向かってpretty babyって歌うんだろう~?」って疑問はあったのだけどね。そこはほら、英語もよくわからん子供だったから。(かといって、大人になっても英語が出来るわけではないが)
つまり、原曲は私の生まれる前の歌。
フランキー・ヴァリ氏が歌っていたこの曲だったのである。
革命が起きたときって、こういう心境だったのかなぁ。
自分の中で「常識」だと思っていたことを、「違うよ!」と知らされる瞬間。
子供の頃。
誰の歌かも知らない、タイトルも知らない。
レコードもなく、英語の歌詞も理解できず、それでも大好きで、どこかで流れるたびに聴いていた曲。
時は流れ、いつしか巷からその曲が消えて、時折、声やメロディー、テンポが違う、別のカバー曲を耳にしても、やはり何か違う気がして。
最初に出逢った歌を、それが原曲だと錯覚し、疑いもせず私の中でスタンダードになった。
音楽は、時代の象徴でもあるが、自分が歩んできた人生を彩るものでもある。その曲を聴いていた頃の思い出が、人生のそこここに刻み込まれている。
原曲を聴いて、自分の中の歴史がよみがえり、それが覆される。
その瞬間。
不愉快というよりも、何だかとてもホッとする。
やっと逢えたね。という感じ。
ひととの出逢いと同じように、私はやっと、この曲「Can’t take my eyes off you」に出逢えたのだ。
この「Can’t take my eyes off you」は、私が原曲だと思っていた、ボーイズ・タウン・ギャング以外にも多数カバーされている。
私よりもっと後に生まれた人は、どの歌手のカバーを原曲だと思い込むのだろう?と思った。
そして、その音楽と共に、どんな思い出を人生の中に刻み込むのだろう。
それでも。
いつの日にかきっと、この原曲にたどり着く。
幾年もの時代が過ぎ去ろうと、どれほどの斬新なカバー曲が巷に流れようと、音はいつか、自然な音へと還っていく。いつかきっと、この原曲にたどり着く。
フランキー・ヴァリ氏の、あの甘すぎない、耳を心地良く撫でる声に。
ボブ・ゴーディオ氏の生み出した、この素晴らしい名曲に。
自分の中の常識が覆される快感を、いつ味わうことになるのだろう。
私はもし、「一生の間で聴ける曲が1曲しかないとしたら?」と問われたら、イージーリスニングやクラシックから1曲セレクトしようと思っていた。
何度聴いても聞き飽きない、嬉しいときも悲しいときも、この曲で癒される。そんな1曲を選ぶとしたなら。
でも、今なら。
きっとこの「Can’t take my eyes off you」を選ぶ。
フランキー・ヴァリ氏の歌が、声のトーンが、周波数が、私の耳にほとんど違和感がない。
曲が終わったあとも、まだ耳元で余韻が残るような。それがちっとも不快じゃなく、不思議と耳に心地良い。
甘いキャンディーやチョコレートが、口の中の温度でゆっくり、とろりと蕩けるみたいに。
耳元で囁くような甘い声が、オーケストラの音と、ゆっくりと絡んで、ほどけて、また絡んで。
フォーンの間奏のあとには、声はさらなるひとつの楽器となって印象深く響き、時に甘く蕩けて音と声が絡み合って流れ込んでくる・・・。
耳で「聴く」というより、「感じる」が、感覚的に近い。
聴いてる自分の顔に、自然に笑みが浮かぶのを感じ、幸せが降り注いでくるような気分になる。
大音量の音の洪水の中に、身体全体を、この声に、音楽に、浸してみたいと思う。
好きになったら、とことんしつこく追いかける私。(「私は歌に恋をする」参照)
しかし今回の恋は楽勝だった。
歌手名もわかる。タイトルもわかる。曲は当然知っている。
なので、躊躇することなくアルバムを買って、他の曲もいろいろ聴いてみた。
ザ・フォー・シーズンズとして、ファルセットで歌う声は、さながら、甘い甘いマジパンやマカロンのようであり、ソロで歌う声は、甘いけれど甘すぎず、例えるなら、りんごの甘さだけで焼き上げる素朴なアップルパイのようだ。
フランキー・ヴァリ氏の多彩な声は、様々な音楽を生み出す。
でも私は、やっぱりフランキー・ヴァリ氏のソロ曲が好き。
例えば、「To give」で、羽生結弦氏がフィギュアスケートを滑ったら、すごく印象深くて美しいと思うし、フレッド・アステアなら、どんなに優雅で美しいダンスを披露するだろうと想像してしまう。
それでも。
やはりこの「Can’t take my eyes off you」が一番好き。
有名な曲だから、好きなんじゃない。
ただ、好き。
星の数ほどある音楽の中で、ただ好き、だと思える曲がどれくらいあるだろう?
そんな曲を、長い長い時間を経てめぐり逢えたのは、とても幸せなことなのかもしれない。
私が味わった感動を話したところ、「大げさやなぁ。たかがアメリカの歌謡曲やん」と言う人がいた。私より音楽に関心が薄い人なので仕方ないが、想いを、どれだけたくさんの言葉で表現しても、自分が感動したことの10分の1も伝わらないものなのか。
確かにそうだ。要は、聴く側にとって、好きか、嫌いか、ただそれだけのこと。
私は好き嫌いが激しい性質なので、嫌いなものもとことん嫌いになるが、好きになると、一途にとことん好きになる。
しかし。
この世の中に「たかが」がつくものなんて何もない。
どんなものにも、作る側の想いが込められている。
その「想い」が、心の琴線に触れたとき、自分の中の何かと共鳴したとき、人は感動する。
私は100%「感覚の人間」なので、感動を表現するのは、感情でしか出来ない。それを大げさだとは思わないし、そういう感情の振り幅が大きいほど、人生は楽しいのではないか、と思う。
心はいつも透明感を持っていないと、そういった感動には出逢えない。
前回の記事、「いまを生きる」で書いたことの重複になるけれど、一瞬一瞬を全力で生きなければ、時間は飛ぶように過ぎ去ってしまう。
人生の中で、素敵な出逢いはそんなに多くない。心をクリアに、両手を常にかざしておかなければ、出逢いのチャンスなんてあっという間に通り過ぎてしまう。
好きなものを好きと言い、感動したことを素直に表現する。そんな簡単で素敵なことをしないなんて、極論を言えば、生きながら死んでいるようなものだ。
邦題の「君の瞳に恋してる」は、「君の瞳に乾杯」のハンフリー・ボガートを彷彿させる名和訳だと思うが、私は原題の「Can’t take my eyes off you」の方が好きだ。直訳の、「君から目を逸らすことが出来ない」の方が、グッとくる。
ひと目見ただけで、一瞬にして恋に落ちる。
目を逸らすことが出来ないくらい、完璧で魅力的な女性。
そんな風に愛されることが出来るのは、一体、どんな女性なのか。
舞台や映画と違って、歌には映像がない。
だからこそ、聴く側の想像が膨らむ。
曲と、歌詞と、声。
どの魅力が欠けても、時代を超えて長く残る名曲にはならない。
歌詞は、一冊のシナリオと同じだ。
5分に満たない時間の中に込められた想いで、物語を、人間を、描き出す。
音楽にあまり興味がないから、余計に、素晴らしい音楽に出逢うと感動する。
素敵なひとと出逢った瞬間のように、この歌に再びめぐり逢えたことに感動する。
そして。
感動は、何かの原動力になる。
シナリオを書く原動力に?
もちろん。それもある。
しかし、人間の見えない力が、どこでどう作用して、どのような縁を導くのか?
それが、次回の不可思議な縁に繋がっていくのであります。
まだまだ引きが弱いかな(笑)
とりあえず、次回は近日中に。
ワタシは、歌に「恋」をする。 [音楽の話]
自分の年齢を、足と心臓で感じるようになりました……。
どうも、いらっしゃいまし。
桃の香りのする紅茶をいかがでしょうか?
最近、バスに乗る機会が多く、バス停までのんきにテクテクと歩いておりました。
何気なく後ろを見たら、乗る予定のバスが接近中!! 何で?! もしかして時刻表を見誤ったか?!
さて。
こんなとき、アナタならどうするでしょうか?
諦めるか? 走るか?
私はもちろん……バスに勝負を挑みましたさ!! ガンバレ負けるな猫たぬき!!(←自分にエール)
当然、バスは排気ガスの勢い凄まじく、非情にも私の横を通り過ぎ……た、と思ったら、バス停で止まった。 ん? 人が降りるのか?と思っていたら、何と、私を待っててくれたのでした。
いや~、田舎のバスは優しいね♪
……しかし。
年齢のみならず日頃の運動不足がたたり、椅子に倒れ込むように座ったはいいが、心臓のドキドキはバス停を三つ通り過ぎるまで治まらなかった……。当然太ももからひざにかけては、「どんだけおもろいねん!!」と思わずツッコミたくなるくらいの大笑い状態ですし。
今日は「教訓。無謀な挑戦を挑むのはヤメましょう」というお話。……ではもちろんありません(笑)
音楽のお話。お題、「インスピレーションは、理屈を超える」です。
……う~ん、いつもながら前フリとはまったく関係ありませんな。
昔のMDを整理していたら・・・。 [音楽の話]
眠れない・・・。
暑くて眠れないだけなら、エアコンをかければいい。まぁエアコンというのも、つければ寒いし、切れば暑いし、何とも中途半端な神器であるが・・・。しかし、私の場合はそれだけではなく、完全に体内時計が狂っているのである。太陽よりも月との方が付き合いが長い。月の色がだんだんに薄くなり、星がひとつ、またひとつと空と同化し、漆黒の空がうっすらと白んでくる。薄桃紅に染まる朝焼けを何度見たことか・・・。う~ん、これはやっかいなことですぞ。