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いまを生きる (Carpe diem と memento mori ) [日々思うこと]

 こんにちは、お久しぶりの猫たぬきです。
 本日、6月10日は、猫たぬきのほにゃらら回目の誕生日と、ブログ開設7周年です。

 毎年、この日だけは、何が何でも更新することにしてますが、如何せん、梅雨時期は気圧の変化が激しいのか、最近はひと月に1、2回だった偏頭痛が、頻繁に起こるので、パソコンの前に座るのが至難の業でして、本日はこれにて失礼・・・。む、無念・・・。(6月10日 22時頃脱落)


 空梅雨から一転して台風て・・・。どうなってるんだ? 日本の気候は。
 てなわけで、毎日の気圧変化は目まぐるしく、よって偏頭痛は治らず・・・。
 決して全快ではありませんが、続きを書きます。

 「いまを生きる」とは、何だか哲学的なタイトルですが(笑)
 まぁ、年に1度くらいは、まともなことを書こうかと。
 誕生日になると、少し気持ちを引き締めようと考える。

 誕生日を迎えて、いつも思うことは、「私は本当に去年より成長したのだろうか?」ということ。
 私は常々、人とは「歳を取る」のではなく、「歳を重ねる」と思っている。
 それは木の年輪のように、少しずつ、けれど確実に、人生という層を成してゆくのだと。

 私は子供の頃、ひたすら早く大人になりたかった。
 何ごとも、親や先生の意見に左右されることなく自分の判断で決めたかったし、感性の合わない大人から、一方的な考え方を押し付けられない環境で生きたいとずっと思っていた。(まぁ、今でも、感性の合わない大人は周りにたくさんいるのですが、それは自分からなるべく近づかなければいい話ですしね)

 子供時代の私は、時間はだれにも平等、1日は24時間で、1年に1回しか誕生日はこないと知るほどには賢かったけれど、「若さ」というものは、過ぎ去ってからはじめて、「若かった」のだと知る、ということを知らないほどに愚かだった。
 そして。
 「若かった」と理解した今、とっくに「大人」という歳に達した今は、果たして私は本当に「大人」になれているのだろうか? と自問自答する。
 親の保護を受けなければ生きることさえままならない乳児から、庇護され養われ教育を受けさせてもらう青年期を経て、私たちは成人する。二十歳になれば成人として扱われる日本の国に生きていても、誰も自分が本当に大人になれているかどうかは判断しがたい。
 世の中には、いい歳をして・・・と呆れられるほど稚拙な犯罪や、子供よりもタチの悪い大人のイイワケが氾濫しているのに。

 人は、成人式を過ぎたから大人になるのではない。
 もう若くないから=大人になった、のではない。

 
 私の考える理想の大人像は、「今現在を楽しみ、常に明日を見据えながら、それでも、もし例え明日が来なくても後悔しないひと」のことだ。


 皆さまは、「Carpe diem」(カーペ・ディエム)という言葉をご存知だろうか?
 ラテン語で、直訳すると、「今日を摘め」という意味になる。

 本日のタイトルでもある「いまを生きる」は、1980年代の、ロビン・ウイリアムズ主演の映画タイトルそのまま。「Carpe diem」は、作中に出てくる言葉。
 ロビン・ウイリアムズ演じる、風変わりな先生が、生徒に詩を朗読させる。(クールなイメージのイーサン・ホークがピュアで内気な生徒役で出演している)
 「バラは摘めるときに摘め。時間は飛ぶように過ぎ去る。今日君に微笑んだバラが、明日には朽ち果てる」
 この映画の中で、この詩は「Carpe diem」、つまり「今を楽しめ、青春を謳歌しろ」という意味に捉えられている。

 この詩は、作者は忘れたが、高校時代から知っていた。
 当時の世界史の先生に教えてもらった。
 いい詩だな、と思ったけど、ただそれだけだった。(当時、もっとこの詩の深い意味を理解していれば、「若さ」というのは過ぎ去ってから「若かったのだ」と知る、という意味もわかっていただろうと思うと、非常に残念・・・)
 実はその頃の私は、哲学の先生から教えてもらった、「memento mori」(メメント・モリ)という言葉の方に惹かれていたのだ。
 「memento mori」は、ラテン語。直訳すると、「死を想え」、「死を記憶せよ」という意味になる。

 どちらも意味合いは同じ。「時間は過ぎゆき、いずれ人は死ぬのだから、今を精一杯生きろ」ということだが、「Carpe diem」が、「今を楽しめ」という楽観的な解釈に対して、「memento mori」の、「死を記憶せよ」は、ものすごく悲観的だ。

 だが、当時から私は、「いずれ人は死ぬ」ことを理解して生きるからこそ、「今出来ること」に感動できるのではないか、と思っていた。(この頃からすでに、天邪鬼で屁理屈好きなのね・・・)
 楽観的な性格は、根が悲観的であるがゆえ、楽観的になれる、とも思う。

 少し話はそれるかもしれないが、昨今、急激に増える若者の自殺を食い止めようと、「ゲートキーパー」なるものを育成しつつあるようだ。
 「ゲートキーパー」とカタカナ表記がすでに嫌いだが、つまりは昔からある「命の電話」の人のこと。自殺しようとする人を勇気付けて、自殺を食い止める係だ。
 たぶん、使われる言葉にもっとも多いだろうと予測できるのは、「あなたはひとりじゃないよ」

 しかし私は、その言葉に真っ向から異論を唱えたい。

 『人間は、ひとりだ』、と。

 
 こう書くと、さぞかし「人間嫌い」だとか、「孤独な人間」「冷たい人間」と思われるかも知れないが、前言は覆さない。(絶対、ゲートキーパーにはなれないね)
 しかし、こう続ける。

 『だからこそ、ひとと繋がりたいと思うんだ』、と。

 「いずれ死ぬ」ことを理解しているから、「今を一生懸命生きられる」ことと同じように、「人間はひとりだ」と思うからこそ、「人と繋がっていたい」と願うのだ。
 そしてそのために、「人を理解したい」「人を愛したい」と思い、その結果、人を理解して友情が生まれ、人を愛して愛情を育むことが出来る。
 人間は、ひとりでこの世に生まれでて、ひとりで死んでいく。
 生きるも死ぬも一緒だと誓い合っていても、寿命は人それぞれ。死ぬ瞬間はひとりなのだ。
 だからこそ、人間は、誰かを求め、人と繋がりたい、手を繋ぎたいと思うのだ。

 最初から、「人間はひとりじゃない」と思うから、「どうして私だけが孤独なのだ」と苦しくなる。
 「あなたはひとりじゃないよ」ではなく、「人間は孤独なものなのだよ」と言うべきだ。
 幼い頃は、親や大人が守ってくれた。
 しかし、大きくなるにつれ、親から巣立ち、自分で自分を守っていかなくてはならなくなる。
 人間は、もともと孤独なのだ。
 そう考えると、もっと世界はシンプルになる。
 友人がたくさんいる人は、それだけ、人を理解しようと努力した人だ。
 恋人や伴侶がいる人は、それだけ、人に愛情を注げるよう努力した人だ。
 いずれ死ぬことを知っているし、今を楽しむことを忘れない。
 そんなひとだ。
 
 何もせず、今を楽しめないのに、死すら記憶していない。
 孤独を理解出来ないから、どんどん自分の孤独が苦しくなる。
 いずれ死ぬのに、今、死にたくなる。
 それは、「仲間」や「絆」など、キレイなところばかりをクローズアップして、「孤独」という、マイナスなことを教えない学校や社会にも原因がある。
 社会は、「Carpe diem」の上っ面だけを教えて、「memento mori」を教えない。

 「死にたい」と思う気持ちを全面的に非難しているのでない。
 確かに、人間、そんなときもある。
 理由はさまざまだけど、何も考えられなくなるくらい落ち込んだり、無気力になったりすることもある。その中で「死にたい」と思うこともあるだろう。「死にたい」と「死ぬ」は、決してイコールではない。
 そんなマイナスな感情に陥ったときは、とことん孤独を味わいつくして、外側の人に対してじゃなく、自分の中の内なる心と向き合うことだ。
 そして、人と関わりたい、繋がりたいと思う気持ちを増幅させることだ。
 自分を深く理解して、初めて他人を理解する気持ちになれる。
 自分に優しくなれない人に、他人に優しくできるはずがない。

 
 私はマイナス思考に陥ったとき、この「memento mori」という言葉を思い出す。
 いずれ死ぬときは来るのだから、今は生きよう、と。
 そう思うと、少し心は軽くなる。
 いきなり楽観的に「今を楽しもうぜ、ヘイ!!」とはならないにしても、「今はとりあえず生きることをがんばろう」と思える。ただ自然に呼吸をして、少しずつ、色を取り戻してゆく。この世は美しいと思い出す。

 『心が開いているときだけ、この世は美しい』

 去年、私が書いた芝居のキーワードのセリフだが、(もともとはゲーテの言葉)
 それは、目には映らないこの世の美しさ。心だけが捉えることの出来る美しさ。
 人生の中で、「この世は美しい」と思える瞬間が、何度あるだろう。
 それだけ心を開いている時間は、どれくらいあるんだろう。
 どれだけ一生懸命になれたら、もっとこの世の美しさを感じられるんだろう。


 誕生日。
 年輪がひと巻き増えた日に、自分に問いかける。

 「今、お前は一生懸命生きているかい?」

 「Yes!! Of course!!」(←なぜにいきなり英語?)
 と、元気よく答えられるかどうかはともかくとして、私は今年も脚本のコンペに参加すべく、今、お話を考えています。
 もし、私が来年の誕生日を迎えられなかったとしても、作品が採用され、上演されれば、誰かの心に、少しでも何かが届くかもしれない。
 身は滅びても、作品は残る。誰かが、何かを覚えててくれれば、心は伝わる。
 それが書く人間、最大の喜び。
 ま、こういうこと言う人間に限って「お前は殺しても死なねぇよ」って言われるんですけどね(笑)
 まぁでも、いつも、「これが最期の作品になるかも」って気持ちで書かないと、良いセリフは出てこないわけで。自分で自分をけしかけてるわけです。うん。
 誕生日に、人から「おめでとう」という言葉はもらえるけれど、そして、そう言ってくれる人が傍にいることは、とても幸せなことだと思うけど。人間は、やはりひとり。自分の人生だけは、誰にも代わって生きてもらえない。自分の内なる闘志は、自分自身で湧き上がらせないとね。
 よし、がんばろ!!
 
 


2013-06-10 22:15  nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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猫たぬき

お久しぶりです、COLEさん^^; nice!ありがとうございます♪
by 猫たぬき (2013-06-26 02:51) 

猫たぬき

あすなろうさん、nice!ありがとうございます^^)ノ
by 猫たぬき (2017-09-04 16:59) 

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