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「ワガママ」に生きることは、悪いことですか? [私の精神論]

 どうも、いらっしゃいまし。
ささ、今日も一杯、おいしいお茶をいかがですか?

 波紋が広がっているジダン選手の頭突き問題。本人の口からいろいろなことが語られ始めましたね。何かいろいろと複雑な問題が絡んでいて、我々は静観しているしかありませんが。
 人は、自分を侮辱されるより、自分の大切な人のことを侮辱されたほうが、何故かカッとなりますよね。もしも殿が私の目の前で侮辱されたりしたら、そりゃ相手を即座にグーで顔面殴り倒しますからね。前歯二、三本折るくらいの勢いで。
 もし、マテラッツィ選手が、これを言ったら相手がどういう行動を取るか読んだ上で、その心理を利用したのだとしたら、その時点で自分たちの負けを認めていたのかもしれない。実力で叶わないと感じたから、もっとも卑怯な手段を使ってまで勝つことを選んだ、と。もし違っていたとしても、そう思われても仕方ない。
 そうまでして勝ちたいの? それで何を得られるんだろう? それで、幸せなのかなぁ・・・?
 今日のお題は「幸せって?」ですね。

 私という人間の、友人知人を含めた周りからの評価は「ワガママ」で「気まま」で「ひねくれ者」で「気が強く」て「変な人」らしい。まあ、大きく外れてはいませんな・・・。
 「気まま」は合ってる。「ひねくれ者」も認める。「変な人」っていうのは考え方は人それぞれなので、まぁ許す。「気が強い」ってのも、まぁそうだね。しかし「ワガママ」ってのはなぁ、人ってみんなワガママじゃないの? ワガママじゃない人っているの? と問いたい。
 「ワガママ」を辞書で引くと、身勝手。自分の気ままに振舞うこと。とある。そうかぁ。私って、周りからは「身勝手」と思われてるのね・・・。

 私が「ワガママ」と言われる原因は、非常に好き嫌いがはっきりしているから、だとか。つまり、日本人の美徳である「謙虚さ」がまるでない。それが人には「ワガママ」と映るらしい。
 しかし、である。そうだろうか? 「謙虚さ」と「自分の意見を言わない」はイコールではない。私の周りのほとんどの人間が、それを同じように使っているので、これはオカシイと昔から思っていたのです。
 みなさんはどう思われますか?

 私が昔勤めていた会社は、社員食堂はなく、賄いさんがいて、社員の食事を作ってくれるという形態のところでした。だから、その日の昼食メニューが決まっています。
 私は食べ物の好き嫌いが多いので「これ苦手なんで」と言って、最初から手を付けずに賄いさんに返すことがしょっちゅうありました。ごはんと味噌汁と漬物だけが昼食だったこともあります(その日のオカズが全滅だったんですね)。賄いさんは「代わりのもの何か作ってあげる」と言ってくれましたが、それは断りました。私は、好き嫌いをする自分が悪いことはちゃんとわかっています。賄いさんの手を煩わせるのは反則です。
 そのやりとりを先輩が見ていたのか、あとで更衣室で注意を受けました。「出されたものは例え一口でも口をつけるのは礼儀でしょ」と。
 先輩は、「残してもいいから一口でも食べるのが礼儀」という。
 私は、「手を付けてしまったら、残った食材は捨てるしかない。しかし、手を付けずに返したら、そのオカズは活きる。食べ盛りの男性社員に大盛りにしてあげることも出来るし、賄いさんが食べることだって出来る」と考えるのですが(たぶん、そのときも先輩にそう力説しました)。
 そして言われましたよ、恒例のセリフ。「ワガママね」と。

 食べ物の好き嫌いはワガママなんですかね。そういえば、小学校の給食が何より苦手だった私は、小学三年生の時の担任の先生がことのほか苦手でした。好き嫌いを決して許してくれないんです。給食の時間が終わろうが、5時間目が始まろうが、下校時間になろうが、許してくれない。しかし私も絶対食べないと決めてかかってるので、根競べみたいなものでした。あるとき、先生に「どうして好き嫌いはダメなんですか?」と聞くと、先生は「食べ物の好き嫌いをする人は、人の好き嫌いをするからです」と言われました。そのときは、まだ子供だったので意味がよくわからなかったのですが、当たってますね。さすが。私は食べ物も人も好き嫌いが激しいです、確かに・・・。

 会社帰りにみんなで食事に行こうという話になったときは、大変です。
 好き嫌いのない人は必ずこう言います。「私、何でもいいよ」と。だから、他のみんなが決めたものに従うよ、ということですね。しかし延々と決まらない。そりゃそうでしょう。誰も意見を言わないんだもの。私はその日、自分が食べたいものを言います。「洋食系がいい」とか「どこどこならお酒の種類も多いよ」とか。そう提案しても「う~ん」と渋る。それなら、自分は何が食べたいかはっきり言わんかいっ!! と思います。終いにはもう、ファミレスでいいんじゃないか? 何でもあるぞ、と言いたくなる(投げやり?)。
 不思議なことに「何でもいいよ」っていう人のテンション低いんですよね。アンタ、何でもいいんちゃうん? と突っ込みたくなります。これだから群れるのってキライなんです、私。女が4人以上集まると、絶対30分は入る店が決まりません。繁華街の真ん中で、女4人、ボーっと「どうする?」「う~ん」ってやってる姿、あまり見ていていいものではないと思うのですが。
 みんな「自分」で決めたくないんですね。最終決定が「自分」ってのが嫌なんです。だから自分が食べたいものを誰かが言ってくれるのを待っている。これが「謙虚さ」ってやつですか? ちょっと違うと思うのですが・・・。

 私が食べたいものをみんなが嫌というのなら、それはそれでいいんです。それ以外の別な好きなものを探しますから。だけど「う~ん」と言われて止まったままだと、どっちだよ、って思いませんか? どうして、「好き」とか「嫌い」とか「いい」とか「嫌だ」とか即座に言わないんだろうって、不思議に思いましたよ。
 そうそう。こういうときによく言われますね。「その場の空気を読め」って。私って空気読めない人間なんですね~。空気って何だよって思いますもん。意見は口に出して言え、って。
 あ~ダメだ。やっぱり私は「女の子」って概念から、あの時代から外れてたんだな~。

 食べ物のみならず、人の好き嫌いも非常にはっきりしている。というのは合ってます。しかし、私も一度は社会人をやっていた人間。嫌いな人間だからといって、挨拶もしないという無礼者ではありません。もちろん、社会人らしく社交辞令もわきまえ、きちんと表面上は接しておりましたよ。
 個人的な友達になるかならないかは、それは別の問題です。だから私は友達少ないんですね。こういう性格を理解してくださる奇特な方が世の中には少ないってことですかね。私の「ワガママ」を理解してくれる人は、ホント少ないです。数人です。ありがたいことです。涙が出ます。
 昨日のブログにも書きましたが(言葉が凶器になるとき。参照)一度人を嫌いと思ったら、トコトン嫌いになります。病的なくらい。たまに自分の性格がコワイな~と思うときありますから。はい。

 私が一番言いたいことは、世の中のみなさん「ワガママ」じゃなくて、いいんですか? ってことです。確かに「ワガママ」は辞書で引いたら「身勝手」って書いてあります。
 しかし、私が定義する「ワガママ」っていうのは、「自由に楽しく生きる」ってことなんです。

 食べたくないもの、無理して食べなくたっていいじゃないですか。
 嫌いな人とストレス溜めながら付き合わなくたっていいじゃないですか。

 一番自分を楽しませてあげることが出来るのは、自分なんです。そして、自分が楽しくなければ一緒にいる人も楽しいはずがない。いつも楽しそうにニコニコしている人の隣にいれば、同じように楽しくなれる。楽しさは伝染します。幸せな人は、幸せを人にわけてあげられるのです。
 人に「楽しませて」もらおうとしたり、人に「幸せ」にしてもらおうと思うから、不満が溜まっていくわけです。自分で勝手に「楽しく、幸せ」になりゃいいんです。
 だいたい「楽しい」とか「幸せ」には形がないのだから。自分が「楽しい」と思えば「楽しい」のだし、「幸せ」と思えば「幸せ」なんです。他人がどう思おうが、知ったこっちゃありません。
 イマドキの人の幸せの基準が、現実に使えるお金だったり、人と比べて自分が幸せに見えるかどうかが判断基準だから、「幸せ」だと思う人が少ないんだと思います。
 おいしいものを食べたときとか、きれいな夕焼けを見たときとか、「水曜どうでしょう」を見て笑ってるときとか(ちっちぇ~幸せだなぁ)、いくらでも「楽しい」ことや、「幸せ」なことはあるのにね。
 大きな幸せが一個だけボンとあるより、日常的に小さな幸せがちょこちょこあって「幸せだなぁ」と感じられる方が幸せだと思うのですが・・・私はね。

 食べ物の好き嫌いが多いのは不幸ね、ってよく言われますが、その代わり好きなものは最大限においしく感じます。「嫌い」が多いと、限られた「好き」なものがメチャクチャおいしく感じますから、全然不幸じゃないし。逆に嫌いなものを「騙されたと思って食べてみ」って言われる方が嫌。だって騙されたくないもん。
 友達が多いことを自慢する人に、友達少ないって不幸だねって言われたことがありますが、友達の数を自慢するより、質を自慢しろよって言いたくなりましたしね、正直言って。本当に親友と呼べる人間は誰もそんなに多くない。メールアドレスや電話番号が携帯に登録できないくらい友達がいたって、何かあったときに親身になって駆けつけてくれる人が皆無じゃ意味がない。私は、私を諌めてくれたり注意してくれたりする人を友達に持てたことを幸せに思ってる。

 自分が思ったことをきちんと口に出して、それを貫いて生きていれば、賛同してくれる人は必ずいます。理解してくれる人は、絶対いる。
 「ワガママ」に生きたって、一生。
 人に合わせて嫌われないように生きたって、一生。
 それなら、「自由に楽しく」生きた方がいいじゃない? って思うのです。

 世界一を決める大舞台で、暴力行為で退場してしまったジダン選手。見てくれていた人、子供たちに謝りたいとインタビューで言っていたそうな。しかし、彼は自分のやったことを後悔してはいない、と言った。私は、彼のことを幸せな人だと思う。
 どんな処分を受けようと、後先考えず乱暴な行動を取ってしまうほど守りたい人、愛している人が彼にはいる。自分の信念を貫いた彼は、もし最悪MVPを剥奪されるようなことになったとしても、世界中の視聴者が覚えている。彼が、今大会世界で一番の「MVP」であるということを。
 賞は簡単に取り消すことが出来ても、刻まれた人の記憶を取り消すことは誰にも出来ません。
 マテラッツィ選手が、言った言わない発言をして揉めていますが、私はそれより他に聞きたいことがある。イタリアが取った金メダル。あなたは、それを誇れますか? 百歩譲って、あなたがジダン選手に吐いた暴言は、意図せず放ったものだったとしても、その結果を含めた今大会の栄光を、何の汚れもなく、幸せだと言えますか? と・・・。

 それではお茶にいたしましょう。今日は、ちょっと体調がよろしくないので、カモミールティーにしましょう。紅茶をブレンドしていただきます。カモミールは効能がたくさんあり「医者要らず」と言われるハーブです。体調がすぐれないなというときに飲むと気分がすっきりしますよ。お試しあれ。
 それでは、またお逢いしましょう。


2006-07-13 22:02  nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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