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言葉が凶器になるとき。 [ニュース関連に思うこと]

 どうも、いらっしゃいまし。
毎日、しっくりこない天気ですね。ご一緒にお茶でもいかがですか?

 ちょっと後味の悪い終わり方をしたW杯。今、大変な波紋が広がっていますね、ジダン選手の頭突き問題。しかし、中田英寿選手の引退宣言のその後の報道のように、周りがアレコレ推測でモノを言って何になるんだろう? 試合中であるにもかかわらず、ジダン選手がああいう乱暴な行為をしたにはそれだけの理由がある。そんなの決勝戦を見ていた人間になら誰でもわかる。でもその真相は本人同士しかわからない。言った、言わないは水掛け論でしかない。

 マスコミは読唇術という手を使って真相を暴きたがっているが、あれは本当にアテになるのだろうか? 人の唇を読む、とはどういうことだろう? 例えば耳の不自由な人と話すとき、自分に手話が出来なければ、筆談で、もしくは口をゆっくりと動かして話すことはあるかもしれない。相手に唇を読んでもらうために意図的にそうするのだ。そのときは、相手が唇を読みやすいように、大きく口を開けてゆっくりしっかり五十音を発音するだろう。しかし、テレビ画面に映った人間の唇を読むことなんて可能だろうか? 例え、スロー再生で、しっかりと唇の動きを把握したとしても、だ。しゃべり方にだって人それぞれクセがある。早口の人もいれば、口をあまり開けずにボソボソしゃべる人もいる。みんながみんな、大きな口を開けて人に唇を読ませるようにオーバーに話したりはしないものだ。
 人は思い込みで左右される。今、マスコミで報道されているように侮辱したというセリフが、差別発言であるとか推測されている場合に、まったく白紙の状態で唇を読めるものだろうか?
 マテラッツィ選手が暴言を吐いたから激昂したのか、それとも試合に熱くなり過ぎた自分の失態なのか、それすらもジダン選手が語らなければ推測でしかない。彼が真実を話すときがくれば明らかになるし、一生心に秘めたままかもしれない。それはジダン選手に決断にゆだねるしかない。しかし、決勝戦の映像をビデオで巻き戻して見る限り、確かに二人は何らかの会話を交わしているように見える。その言葉がジダン選手をあのような行動に駆り立てたのだとしたら・・・。
 言葉は時として、ナイフのように鋭く人の心を刺し貫くことがある。今日のお題は「言葉の怖さ」について。

 言葉で人を「傷つける」とはどういうことだろう? よく「自分が言われて嫌なことは人に言わない」というのは最低の礼儀だという。しかしそれだけではない。人には、その人の考え方や倫理、信念があり、自分と同じとは限らないからだ。
 例えば、関西の人間は「アホやなあ」という言葉は日常的に使う。もちろん本当にアホと思ってるわけではない。関東の人間は、目下を叱るとき「バカ」と使う。もちろん本当に「バカ」だと思ってるわけではない。だから両者とも、枕詞のように受け流すことが出来る。しかし、関西の人間に対して「バカ」というのと、関東の人間に対して「アホ」というのでは、印象が違う。関西の人間は、自分が「アホ」と言われても大して腹が立たないから簡単に使うが、関東の人間は「アホ」と言われると枕詞だと聞き流すことが出来ず、ものすごく頭にくるらしい。逆もまた然りである。
 例えが長くややこしいかもしれないが、つまり「相手は自分ではない」ということなのである。その人が何を言われることが一番傷つくのか、深く知ってみないとわからないということでもある。

 人付き合いを始めると、ケンカが多くなる。これはお互いの距離を縮めるいいことでもあり、礼儀がだんだんとなおざりになるということでもある。
 相手をよく知るために、ケンカをすることはいいことだ。しかしそれは、仲直りをするという前提である。怖いことは、相手をよく知らずにケンカするとき。取り返しのつかない言葉を口にすることがままあるからだ。

 子供のとき、私たちはいっぱいケンカをしなかっただろうか。ケンカして泣いて家へ帰って「もう二度とあの子と遊ばない!」と思うが、時間が経つに連れて怒りはじょじょに治まっていく。家の外にはその友達が謝りにきていて、「ごめんね」と仲直りする。
 子供の頃は、その場の感情だけが先にたち人を傷つけるほど言葉のボキャブラリーを持っていない。まだ明確に自分の考え方や信念も育ってない。ケンカの内容も単純である。だから、簡単に謝れるし仲直りも出来る。
 少し大きくなると、知恵も付き、言葉のボキャブラリーも増える。人との付き合い方も複雑になる。だから、子供の頃のように素直に「ごめんね」という言葉が出てこず、ケンカが長引くこともある。
 男女交際が始まると、もっと複雑になる。男同士、女同士という友情ではなく、男と女。違う性であるから、当然わかりあえない部分もある。それに愛情が絡んでくるからだ。

 今までの人生の中で「失恋した経験がない」という人は稀だろうと思う。では「異性を振った経験は?」と聞くとどうだろう?
 男女とも付き合いの最初はどちらも優しくなれる。しかし年月と共にお互いの距離が縮まると同時に、相手を思いやる気持ちも希薄になっていく。もし、どちらもお互いを思いやる気持ちを忘れずに努力し続けていくことが出来る男女なら、結婚という道を辿ることになるだろう。一度でそんな人に巡りあえた人は幸せだし、何も振った振られたという経験をすることもない。しかし、みんながみんな一番最初に付き合った人と結婚するわけではない。付き合っていくに連れて性格の不一致もあるだろうし、相手の嫌な一面を見て幻滅することもあるだろう。
 別れのとき。振る方、振られる方、どちらがより辛いんだろうか? 私にはどちらも経験がある。でも、今でも傷として残っているのは、たった一度だけ、振る立場にあった恋愛だと断言出来る。

 振られるというのは、確かに辛い。自分にはまだ愛情が残っているのに、一方的に去っていかれるのは、自分自身が何の意味もないような気になってしまう。体中の力が抜け落ち、食欲もなく、ただ息をしているという日々が続く。相手に対する愛情が深ければ深いほど、その期間は長引く。しかし、である。人間は再生する生き物なのである。爪を切っているとき、つい皮膚まで切り落としてしまうことがあるが、一週間ほどで、きれいに元通りになってしまう。それと同じように、心も少しずつ再生していく。辛い気持ちが思い出になり、食欲も気持ちも、じょじょに復活していくのだ。

 何年かして、振られた相手と街中で再会することもある。私の場合「何でこんなとこにいるの?!」と思う場所で再会したこともある。私も旅行中、相手も旅行中だったのである。お互い隣に恋人を連れて(私は殿と婚約中であった)。向こうもまったく同じことを考えていたと思う。正にドラマのような再会である。私たちはお互い、会釈して通り過ぎた。胸騒ぎはまったく起こらなかった。もう相手を見ても何の感情もわかないようになっていたのだ。愛情ではなく、ただの懐かしい思い出。ただ、それだけ。もちろん、昔付き合った人と再び友達にならないとは限らない。一度は好きになった人だから、逢えばおしゃべりくらいはする。それくらいの感情は持っている。しかし、愛情は一切ない。心の中の傷は癒えても、一度断ち切った関係は元に戻らない。そう思っている。よく焼けぼっくいに火がつくとか言うが、そういうのアリなんだろうか? 傷つけられた相手に再び愛情がわく? それって立ち直ってないってことじゃないの? それとも私が感情割り切り過ぎなの? 

 振られた恋愛は、そういう感じで思い出に変わっていくが、振った恋愛は違う。その人のことは未だに私の心の傷になっている。なぜなら、その人に対して私が付けてしまった傷の深さが、私にはわからないからだ。
 二人とも、性格が似過ぎていたのだと思う。恋愛がうまくいっているときはそれはとてもいいことだ。何を話しても、打てば響くような反応があるから。しかし、一度歯車が狂うと、どこか相手の癇に障る様相を帯びてくる。単なるたあいのない話が、議論になり、討論になり、終いには相手の意見の潰しあいになる。性格が似ているから、相手が何を言われたら傷つくかが手に取るようにわかる。相手も同じ。言葉の暴力は、最初は竹刀で戦っていたのが、だんだんと切るか切られるかの真剣での戦いになっていく。そうなると、もう相手のことを好きなのか、憎んでいるのか、わからなくなる。
 私は、別れるときに嘘をついた。「他に好きな人が出来た」と言ったのだ。それ以外どうしようもない気がしたからだ。別れる別れないは今までさんざんお互いの口から出た言葉だった。しかし議論の末、彼はいつもやっぱり別れないと結論付ける。当時は、どうして私みたいな口も性格も悪い女に見切りをつけないのか不思議に思った。私は、彼に「別れよう」と言わせたかったのかもしれない。それが一番彼にとって良いことだと思っていた。プライドの高い人に、私から「別れる」と言うよりは。しかし、もう私も限界に近かった。これ以上ストレスを味わいたくなかった。何か大きな原因があったとか、相手を顔も見たくないほど嫌いになったとか、そんなわけじゃない。ただもう議論することに疲れた。そんな思いで一緒にいることが苦痛だった。だから嘘をついた。
 その瞬間、私は彼を最大限に傷つけたと感じた。私は彼の心にグサリと剣を突き立てたのだ。
 もしかしたら別れた後、あっけらかんと「あんな女(私のことね)と別れてよかった~」と思ってるかもしれない。新しい彼女と幸せな恋愛をして、結婚しているかもしれない。それならホッとする。「やっぱりあなたには私じゃなかったんだよ。良かったね」と笑顔で祝福できる。彼とは、それから再会していない。だから今どういう人生を辿っているのかまるでわからない。もちろん十何年も前の話なのだから、未だに傷を引きずっているとは考えられないし、とっくに傷など癒えて良い人と巡りあって結婚していると思うが・・・。
 傷つけられた側なら、自分の傷がどのくらいの深さであるか、どれぐらいの期間で癒えたか自分自身が立証している。しかし、相手に付けてしまった傷は、どれほど深いのか、まるでわからない。その罪悪感が、私の心に今も傷として残っている。

 男女の仲に限ったことではなく、同性の友人同士でもそうである。私は今までの人生の中でたったひとり、もう二度と連絡を取ることはないと思っている人がいる。彼女は、私を深く傷つけた。その傷は癒える癒えないではなく、彼女という人間を信用できなくなってしまったのだ。
 私は少し病的なところがあると自分でも思っている。自分が好きだと思える人はとことん信用する。例え人から悪い噂を聞こうとも、自分が好きだと思う限り疑うことはしない。しかし、裏切られたと知ったときには容赦しない。どんなに相手が心を入れ替えたとしても、決して許さない。相手との関係を即座に断ち切ってしまう。
 よく、やられたらやり返さないと気がすまないという人がいるが、私からしたら「まだその人に愛情あるんだねぇ」と思う。私は自分が許さないと決めた人間に仕返しする気持ちを持つことすらしない。もうその人のことを考えること自体が、嫌なのだ。例え目の前に現れたとしても、あたかもそこに誰もいないかの如く(もしくはまったくの初対面の如く)振舞えるだろうと思う。私の中から、その人の存在はもう消去したのだ。そこまで思うことはめったにないが、私が人を嫌いになるというのは、そういうことだ(こんな両極端な人間もそういまい・・・)。

 言葉は時として、刃物と同じ凶器となる。人の口から飛び出すひと言で、死に至ることだってありうるのだ。そして怖いことに、一度口から飛び出した言葉は、決して取り消せない。軽々しく人を傷つける言葉を言うべきではない。
 私は、人は人を傷つけたとき、同じだけの痛みを背負わなければならない、と思っている。その覚悟で言葉を発するべきだ、と。

 マテラッツィ選手がジダン選手に言った言葉。何を言ったのかは知らない。しかし彼の心を傷つけたのは事実だ。それが、どれくらい深い傷として残したか、マテラッツィ選手にはわからない。だからこそ彼は、安易にマスコミに反論してはいけないと思う。ジダン選手が口を開くまで、自分も同じように口を閉ざしていなければならない。そして、真摯に謝るべきだと思う。相手が許してくれても例え許してくれなかったとしても、だ。その上で、その言葉を相手に投げた自分自身を反省し、一生罪悪感として傷を背負わなくてはならない、とも思う。
 「売り言葉に買い言葉」だったというかもしれない。「こんなおおごとになるとは思わなかった」とも。
 しかし決勝戦を見ていた、世界中の人間が目撃しているのだ。ジダン選手が肩を落として去っていく、あの悲しみをおびた背中を。
 今後はマスコミの憶測ではなく、ジダン選手の口から真実が語られたときのみ、報道していただきたいものである。

 それではお茶にいたしましょう。今日は、日本茶。おいしい日本茶を淹れると、食べたくなる水羊羹(好きだね~)をお供に。
 それでは、またお逢いしましょう。


2006-07-12 23:00  nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
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コメント 4

kiyo

猫たぬきさん、こんばんわぁ~~。
ジダン選手、TVに出ていましたね。結局、どんなことを言われたのかはっきりしないし、マテラッツィ選手は言っていないと言っている・・・・。まさに言った言わないの水掛け論・・・・こうなるとどうにもならないような気がしてなりません。本当に後味の悪い決勝戦になってしまいました。
FIFAの調査の結果次第では、ジダン選手のMVPの取り消しもありえるとか・・・・。手(頭)を出してしまったのは悪いと思うけれど、
その理由もきちんと調査してもらいたいと思います。
結果、ジダン選手が悪いとしてMVPが取り消されるのなら、マテラッツィ選手が悪かった時、イタリアの優勝は取り消されるのか?などと、考えてしまいました。

私も一度裏切られた人は絶対に許せません(許しません)
近しい友達には「怖い」と思われていることでしょう。
昔から、表面的にはどんな人とでもある程度のお付合いはできましたが、やはり振り返ると本当に仲の良い人は数えるくらい・・・・。
私が篩いにかけているのか、かけられたのか・・・・。
その辺は現実逃避したい所なワケです。
昔は私から連絡を取ることが多かったのですが、ある一時期に複数の人に裏切られ、その他の人にも自分から連絡を取ることをやめてしまった時期があります。それでも、自分の時間は普段通りに過ぎてゆく・・・あちらからの連絡はない・・・・あぁ~~私ってそんな存在?と・・・・心を痛めたものです。それ以来、自分に防衛線を張ってしまったのでしょうね。
そんな私が本当に許せないと思うのは、かなり酷い出来事で、一生許せないと思っています。でも、完全に消去しきれていないから、思い出してクヨクヨする度に、自分の中の何かが大きくなっていくような気がしてなりません。早く消去して、心のそこから楽しい人生を送らないと!って思ってイマス。(なんか話が大きくなってきちゃったなぁ~<笑)
今日も長文につき失礼しました!(ジャンジャン)
by kiyo (2006-07-14 00:06) 

猫たぬき

こんばんはkiyoさん(^^)どうぞどうぞ、長文大歓迎ですよ~。
kiyoさんにも悲しい過去があるんですね。でもね、そんな人と縁が切れて良かった~♪と思うことも大事ですよ。消去する必要はないですけどね。それも自分の人生の糧です。落ち込むときはトコトンまで落ち込むと、次の日はいっぱい笑えます。自分の存在を否定しないで! 楽しい人生は送れますよっ!!
私はこうやって文章を書きながら探している気がします。ブログを読んでもコメントを残そうと思わない人もいます。でもkiyoさんのブログに行ったのは偶然だけれど(水曜どうでしょうが縁ですね)kiyoさんの文章を読んで何かを感じ取ったのは事実です。知らないけれど、懐かしいような。違うけれど、似ているような。そんな感じですかね。言葉にしにくいですなぁ。伝わるかなぁ・・・。
ジダン選手のMVP剥奪は、どうなるかわかりませんが、例え剥奪されようと、世界中の視聴者は、ジダン選手がMVPであることを知っているんです(^^)v
またそちらに遊びに行きますね~♪
by 猫たぬき (2006-07-14 04:03) 

ウチータ

こんにちは、ウチータです。
今日、『信長の棺』を読み返していて、いい文章が見つかったので長くなりますが、ご紹介します。
以下抄出・・・
「失礼じゃが、治部殿の言葉は言葉ではなく、言刃じゃ。それも剃刀、錐の刃じゃ。城内で愚か者を相手に物を言われる時は、一度ごくりと唾を呑み込んでから、ゆっくりとお話しなされては如何かと。その間に言葉の刃を葉に変えることをお勧めしたい。」
主人公の太田牛一が、石田光成の部下に対して、主君へのアドバイスに送った言葉です。
私にもそのまま言える言葉でした、今後、気をつけようと思います。
by ウチータ (2006-07-17 16:13) 

猫たぬき

こんばんはウチータさん(^^)本屋に「信長の棺」を探しに行ったところです。近所の本屋にはなく、図書館へ探しに行ったら予約待ちだとか。人気のある本なんですね~。びっくりしました。
確かに言葉は刃物以上の力を持つこともありますからね。しかも一度口に出してしまったら取り消すことが出来ない。一度ゴクリと唾を呑み込んで発するべきなんですよね。勉強になります。私も探して読みますね。感想は後ほど(^^)v
by 猫たぬき (2006-07-17 23:15) 

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