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いっぱい泣いて、いっぱい笑って、私たちは大人になる。 [私の精神論]

 どうも、いらっしゃいまし。
さぁさ、何のお茶をお淹れいたしましょうか?

 下書き機能を覚えたので、安心してブログが書けるようになりました。ブログもサクサク動くようになったしね(嬉しい♪)。23日も午前1時から5時までストップだってね(大変ですなぁ)。さてさて、実は、昨日書いたブログをもう一度読み返してみて、小学生の時のことを改めて思い出してました。そういえば、私たちの世代って今の子供達に比べたら圧倒的に討論交わしてたなぁ、と。ということで今日のお題は「討論」です。

 今の子供達って良くも悪くも「いい子」だと思われませんか? 聞き分けがよく、電車やデパートの中で大声で泣き喚く子供も少ない。うちのマンションにも子供が多く住んでいますが、共用廊下をドタバタと走り回ることもないし、大声で喚いたりもしない。廊下やエレベーターでばったり会ったら「こんにちは」と挨拶する子も多い(言わない子ももちろんいます。でもそういう子の親は、こっちが挨拶しても返してこない人だから仕方ないね。親がまず教育出来てない人なんだもの)。しかし・・・何となく、覇気がない気がするのです。子供特有の何て言うのかな? あの意味のないエネルギーの塊みたいなものがない。私たちが子供の頃って、この小さい体にどこにこんなパワーがあるんだ? と思うくらい元気だったんじゃないでしょうか?

 我が母の証言によると、私は小さい頃ガキ大将だったそうな。何故か私の近所には女の子が産まれず、同い年の子はみんな男の子だった。だから、おままごとの代わりにチャンバラごっこ(古いな~)、三輪車やコマ付き自転車に乗れるようになると、遠くの公園まで探検隊ごっこと、男の子に混じって遊んでいたようです。しかも近所の生っちょろい男の子はみんな私の子分だったらしい(まさかっ)。しかし、近所の子供たちが一緒に写っている当時の写真には、子供ながら力関係が出るようで、細っこい男の子たちの真ん中で偉そうに写っている私は、どう見ても母の言う通りに見えてしまうから悲しい・・・。(どうも私は口が悪いこともさることながら、拳固で決着をつけることがままあったらしい。女の子なのに・・・最低やね・・・)
 10年ほど昔、24時間戦えますか♪みたいな歌が働く企業戦士の間で流行りましたが、まさに子供の世界は24時間営業。お腹が空くか、トイレに行きたいか、本能による欲求でしか家に帰らないらしいですから。雨が降ろうが、とっぷりと日が暮れようが「まだ遊ぶっ!」と決めたらテコでも動かない。親に無理やり家に連れて帰られ、玄関で靴を脱がされている間にネジ巻きがとまったかのように寝てるということがたびたびあったようで・・・。食って、遊んで、寝る。この三つだけで持っているエネルギーを使いきるんですから、どれだけパワフルだったのか想像がつきます。どしゃぶりだったり、台風だったり、外で遊べない日はまさに「オリに入れられた獣」状態で家中のおもちゃをひっくり返し、暴れる暴れる・・・。近寄ってきた大人達に容赦なく牙をむく。おそらく、あの頃の私達はまだちゃんとした人間になりきれていない「産まれたての子トラ」だったのかもしれない。

 さて小学校へ入学。学校というところは、ご近所さんだけでなく集団生活を学ぶところですから、さすがに拳固で決着をつけるような野蛮なことは通用しなくなります。となると何でパワーを吐き出すかと言えば口ですわな。
 昨日も書いたように、私達が小学校の頃は今から考えたら実にしょーもないことを論じあっていたように思います。みなさんはありませんでしたか? 
 例えば「目玉焼きには何をかけて食べる?」など。これはソース派と、しょうゆ派が半々。ときどき「ケチャップ」という子がいたりします。「マヨネーズ」という子がいたら大変ですよ。イマドキみたいに「マヨラー」や「ケチャラー」なんていない時代です。「マヨネーズは卵から作られてんねんで。卵に卵かけるて、変!」とミョーに正論で理屈こねるヤツがいたりするのです。そうすると子供たちの間で「目玉焼きにマヨネーズは変」という考えが「世間の意見」と考えるようになり、「マヨネーズは卵から出来ている」という知識を得たりします。こうやって団体生活の中で、「自分が正しいと思っていることすべてが、世の中の常識ではない」ということを学ぶわけです。

 今の学校教育に、こんな討論の場があるのでしょうか? 学級委員が教壇に立って生徒と生徒で行事を決める「学級会」や、クラスのモメ事などを先生と生徒で話し合う「終わりの会(終礼)」など。
 私たちの世代にイジメが少なかったのは(皆無だとは思っていません。大なり小なりあったと思います)クラスで誰かが誰かを攻撃しているのを目撃したら「あんたらええ加減にしとかんと終わりの会で言うで!」などと助ける、いわゆる「学級委員タイプ」の子がクラスに何人かいたからでしょう。子供たちは子供たちなりに、何とか大人たちと渡り合うために切磋琢磨していたのです。
 今の子供たちに、そんなことがあるのでしょうか? 確かに、とても「いい子」に見えます。何でも大人の言うことを聞く。逆らうことなんてない。
 「塾へ行きなさい」「はい」
 「ピアノを習いなさい」「はい」
 しかし、それは本当にその子のやりたいことなのでしょうか? 本当は嫌だけれど、嫌だというほどの理由がない。大人を打ち負かすほどの言葉を持っていない。だから言うことを聞く。逆らうより言うことを聞く方が、らくなのです。らくとは楽と書きますが、私は「らく」とひらがなで書きたい。「楽」しくはないと思うからです。ただ、しんどい思いはしないだけで。
 私達の世代と著しく違うのは、ここです。
 私達には、大人に負けたくないという気持ちがあった。押し付けられることを嫌った。ちゃんと反抗期というものがあった。・・・何か、尾崎豊の世界ですね。私達の世代で尾崎豊ファンが異常に多いのはこういう所以でしょうか?(私は違いますが)
 子供同士の討論や、大人への反抗、そのすべてが自分達の人格を作っていったのです。今の子供たちは、大人しくていい子で、反抗するなんてありえない。そんなしんどい思いはしたくない。そう、私達が子供の頃「産まれたての子トラ」だとしたら、今の子供達は「大人しい子猫」いえ、「牙を抜かれた子トラ」なのかもしれません。

 ご存知の通り、アフリカにいる野生のトラやライオンは獰猛です。でも動物園で大切に飼われているトラやライオンはどうでしょう? 毎日きちんとエサを与えてもらって、体を洗ってもらって、飼育員さんに甘えて。まるで牙がないのかとさえ思うほどです。食うために獲物をとる必要がないのですから、獰猛になる必要がないのです。だから飼育する人間もときどき忘れてしまいます。自分が世話するかわいいこのトラが、本来猛獣であるということを。だから噛まれたり牙で襲われたりしたときに驚くのです。
 今まで大人しくて言うことの良く聞くかわいい息子(娘)が、いきなり刃を向けたときに。
 本当は子トラのように獰猛な一面を持っていたということを。牙は「抜かれた」のではなく、「隠していた」だけだということを。

 子供は天使だという表現、私は思いません。子供は本来残酷です。それは分別ある大人の残酷さと違い、無邪気な残酷さというべきもの。子供のとき、昆虫採集をしませんでしたか? 小さな虫にも命があるということを、知らないのです。だから残酷になれる。しかし、獰猛な子トラもやがていろいろなことを知るのです。子供の頃、拾ってきた子犬を飼いたいと親にお願いして飼ったとする。その子犬がすぐに死んでしまったら? 子犬に命があるということ、自分が昆虫採集で殺してきた虫にも命があるということ。そして自分という人間も、やがて死ぬということ・・・。愛情を受けて、教育を受けて、子トラは育っていく。それには、体に収まりきらないエネルギーを外へ放出させなければならない。泣くことで、笑うことで、叫ぶことで、「喜怒哀楽」を全身で表現して。
 今の「いい子」たちは、どこへそのエネルギーを放出させているのだろう。反抗もしない。意見も言わない。自分の中で収めたエネルギーがどんどん歪んで溜まっていくことを知りながら。それとも気づかないうちに、それはどんな方向へ流れていくのだろう・・・?

 イマドキの子はキレやすい、と大人は言う。そうでしょうか? キレているんじゃありません。「キレる」なんていう言葉は大人が勝手に作り出しただけです。自分たちの罪を棚にあげて。私達大人が、子供達のエネルギーを吐き出させなかっただけなのです。歪んだエネルギーが耐え切れずに放出したのです。小さい頃にいたずらをして怒られた経験がないから、社会から「犯罪」として怒られるのです。しかし、怒られた子供は自分が悪いことをしたという意識すら持てない。今まで「いい子」だと言われ続けてきたからです。
 今、一番ニュースを見ていて悲しいのは、自分と同世代の大人達が、子供を虐待したと逮捕されたり、犯罪を犯したりすること。少なくとも、私達の世代は今の子供達よりもっと自由に育てられていたはずなのに。歪んだエネルギーを今の不幸な子供達ほど溜め込んでいなかったはずなのに。

 私には子供がいないので、どうしても「親の立場」からではなく、「子供の立場」から話してしまいますから、本当に子供を持って育てている方々には不快に響くかもしれません。すみません。
 でも子供の立場から言わせてもらえるなら、子供は親の言うとおりに動く人形ではないのです。反抗しない子供、親に逆らわない子供、意見を言わない子供。そんなのいい子でもなんでもないのです(もちろん家庭内暴力と反抗期はまったく別物ですが)。
 赤ちゃんはお母さんに甘えてミルクを飲んで、寝るのが仕事、と世間は認識してる。だったら、子供は意味のないエネルギーを吐き出すのが仕事、そしてそれを受け止めるのが親の仕事だと私は思いたいのですが(たまにスーパーで、何が悲しいのか、おいおい血管切れるんじゃないか? と思うくらい泣き叫んでいる子供を見かけますが、あれは正しい。人前で恥も外聞もなく泣けるのはあの年代だけなのだから、しっかり泣いて大きくなれよ、と思ってしまいます。お母さんは困り果てた顔で見ていますが・・・大目に見てやってお母さん。子供だって24時間泣けるエネルギーはないはず。きっと泣き止みます)。子供は泣くだけではありません。そのあといっぱい笑います。「笑う」ことが出来るのは人間だけだと知っていますか? 動物には「鳴き声」としか言いませんよね? イマドキの子供達は、いっぱい笑えていますか? 

 まず最小の社会の単位、家庭でもっと「討論」しましょう。子供の「何で何で?」をきちんと答えてあげましょう。吐き出すエネルギーを受け止めてあげてください。そうすることで子供は次の社会の単位、「学校」へステップ出来るのです。自分の意見をきちんと言える子。「良いこと」と「悪いこと」をちゃんとわかる子になれるのです。
 「子トラ」を人間まで引き上げるのは家庭です。学校は集団生活を学ぶところ。教育だけなら塾や家庭教師で事足ります。学校は集団の中で「自分」の位置をきちんと確立するところだと思うのです。親に勉強しろと言われるからするのではなく、自発的に勉強の出来る子に対抗して、自分も、と一生懸命になる。スポーツでチームワークを学ぶ、等々。その中で人と討論して、ぶつかりあい「人と違う自分」を発見したり、「同じ考えを持つ同士」に出逢えたりするのです。「学校」とは、そういうコミュニケーション能力を身につける場なのです。何も話さない、何を考えているかわからない。親と先生のいうことだけを聞く人形を育てるところではないのです。そういうことをきちんと学んで次の「社会」へステップして行ける人間に育つのではないのでしょうか?

 「社会」へステップしていく子供のことも書きたいのですが、すでに長い文章になってしまいましたので、今日はこのあたりで。次は「討論Ⅱ」で書きたいと思います。

 それでは今日のお茶を。紅茶にバラの花びら(ローズレッド)を浮かべて洒落たティータイムと参りましょう。ローズティーですね。バラのジャムを入れてロシアンティーでもいいかもしれませんね。
 それでは、またお逢いしましょう。


2006-06-23 00:02  nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

m_kikuchi

まるで、生き生きと遊んでいる子供達を見るようで楽しかったですよ。このように育てば、みんな子供達はみんなさぞ幸せでしょうね。
by m_kikuchi (2006-06-28 09:53) 

猫たぬき

こんにちはあすなろうさん(^^)そうです。誰でも人は最初っから大人だったわけではなく、必ず子供の時代があったはずなのに。どうして子供の時の自分を人は忘れてしまうんでしょうか? 自分が育てやすいように子供を育てる親が増えるから、今のような事件が増える気がします。愛することと甘やかすことは全然違うことなのに。
by 猫たぬき (2006-07-03 10:41) 

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