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ガラクタとダイヤモンド。 [日々思うこと]

 どーもどーも、猫たぬきです。
 しばらく…というか、前回の更新日は8月ですか。ほぼ一年ぶりの更新ですね(笑)
 もうすでに記憶から消されている可能性があるので、一応ご挨拶をしておきましょう。
 「どーも、奥さん。知ってるでしょぉう? 猫たぬきでぇございます」(←大泉口調で読めるアナタは立派などうバカです!!)

 さてさて。
 本日は猫たぬきの誕生日!! ということは、ブログ開設5周年でございます。
 いや~、最初は毎日更新していたのにねぇ…。そのうち、一週間に1回くらいになって、一ヶ月に1回になって、今じゃ年に1回の更新て…。
 パソコンの前に座るのは毎日のことだけど、ブログを開いて文章を書くのはホント久しぶりで、ブログの書き方を忘れてしまいましたよ。どうしましょ。何を書きましょうかねぇ…。
 前回書いたのは、朝カレーの話でしたっけ。
 じゃあ、今回は少し真面目に人生の話などを。


 3月11日に起きた東北大震災から三ヶ月。
 国会は何をやってんだか内輪もめばかりで、復興は遅々として進まず、未だ被災者は安定した日々の生活を送れず、不安の中にいる。
 福島原発から離れた静岡でも、一番茶に暫定基準値を超えるセシウムが検出されたりもした。
もうすでに、20キロ圏内だ、30キロ圏内じゃ計れない。どこまで拡散してゆくのかわからない、目には見えない放射能という恐怖にさらされながら、私たちは生きている。

 「もっと、自分の価値を考えてみるといい」

 これは、最近まで親しくしていた友人のセリフ。
 その友人とは、今は疎遠になってしまったけれど、いろんなことを教えてくれた大切な友人だった。
 だけど、時々、私にはよくわからないセリフを言った。

 「価値」とは、何ぞや?

 例えば、美術品や絵画、陶芸品などには、高値がつくことがある。
 高名な画家の絵がオークションにかけられれば、マニアが血まなこになって競り落とす。
 その絵画には、マニアならではの「価値」があるからだ。
 つまり、そのものの「価値」は、描いた当人ではなく、見る側の他人が決めている。
 「価値」というものは、「自分」が決めるものではない。
 宝石ひとつにしたって、ダイヤモンドの価値がわからない人間には、ただ光る石ころにしか思えない。小指の爪の先ほどの石に、何千万も払う人間の気が知れないと思うことだろう。
 売る側が、「これには、その値段の価値がある」と説明しても、買う側に価値がわからなければ、話にならない。
 「価値」というものは、片方が決め付けても成立しない。

 しかし。
 ものに価値をつけるのは、自分ではなく他人だと言ったけれど、私は、生き物に「価値」をつけるのを好まない。

 ペットブームにのっとって、人気の動物がペットショップで売れている。
 だけど、ブームが去ったら、その動物はどうなるのだろう?
 ペットを家族として扱う「ペット愛護者」が増える一方、心無い飼い主によって捨てられるペットが後を絶たない。
 かつて自分の元で共に生活し可愛がっていた動物の末期を、飼い主はどう思っているのだろう? 自分にとって「価値のなくなった」ペットはどうなろうが構わないから、そのようなことが出来るのだろうか。

 虐待する親は、子供の絶対的君主である。血という繋がりを盾にとって、しつけと称して虐待する。
 虐待された子供は、親から「自分は価値のない人間だ」という刷り込みを与えられて大人になる。
 何かにつけ自分に自信がなく、「どうせ私なんて」と思い込む。だけど、そんな自分が嫌で自信を持ちたくて、でも何をやっても自信が持てなくて、過去のトラウマに縛られて、ジレンマに陥る。

 今の国会は、被災者そっちのけで、わけのわからない内輪もめで時間とお金と電力を費やしている。(くだらないケンカはすべての電気を消してローソクでやればいいのに…)
 あの人たちは、自分で自分の価値を決めているような気がする。
 「私は素晴らしく価値のある人間なのだから何をしても何を言っても許される」と思っていように感じる。
 あの人たちの言う、「国民の皆さまのために、全力を尽くしてがんばっています」というセリフは、銀行のATM機から聞こえる何の感情もこもらない「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と同じに感じる。
 だから、被災地の人たちに「何をやってるんだ」と言われようとも、自分の価値を過信しているから何とも思わない。何とも感じない。「国民の皆さまのために」と、もっともらしく心のこもらない言葉を、ドヤ顔で、テレビ画面からお茶の間に流せるのだ。(ように、私は感じる)
 なのに、一国の総理ともあろう人物が、何も決められず、何も出来ず、責任のなすり付け合いばかりしている事実。
「国民の命を護るべき立場」にありながら、隠し事、キレイ事、嘘八百で、国民を危険にさらし、心配しているのは、「国会での自分の立場」のことだけ。

 自分がつける価値と、他人が評価する価値は、あまりにもズレている。


 「価値」って、一体何?

 私は自分のことを、「素晴らしく価値のある人間だ」と過信も出来ないし、どちらかというと、いつまで経っても自分に自信がなく、「どうせ私なんて」とイジケてウジウジする情けない人間で、「価値」うんぬんを考えたこともなかった。
 だから。
 私は、ものにも人にも、価値を求めない。
 何を見ても「価値あるものだ」とか、誰を見ても「価値ある人だ」とも思わない。
 「好き」とか、「大事」、『大切』だと思う。
 自分の大切にしているものは、壊さないように大事に扱うし、誰にも譲れない。
 それにどれだけの価値があろうと、まったく価値がないものだろうと関係ない。
 人もそう。
 誰がどれだけ悪口を言っても、評判が悪くても、私がその人のことが好きで、大切に思えるならどんな人でも構わない。
 自分の好きな人に、価値などつけられない。

 震災で亡くなった方も、大切な何かを守るために必死だったんだと思う。
 家族だったり、恋人だったり、友人だったり、町そのものだったり。
 「価値」があるから、守るんじゃない。
 心の命ずるままに、「大事だから」、守ろうとした。
 その証拠に、被災地で被災者家族が一番見つけたかったものはアルバムだった。
 「思い出」に価値などつけられない。
 誰もが無くしたくない一番大切なものだ。

 もう疎遠になった友人だから、今さらその話の続きは聞けないけれど、おそらくその人にとって私は「価値のない人間」に分類されたのだろう。
 「価値」を決めるのは自分ではなく他者なのだから、それも仕方ない。

 …んん? これがいわゆる「価値観の違い」ってやつか?!

 なんて、オチがついたところで。(え? オチてない?)
 あ。
 「価値観」という言葉で昔読んだ文章の一節を思いだした。

 『価値観が違うからこそが他人が自己とは違う所以なんです。
 己の器を広げる能力のない人には、価値観を言い訳にするしかないんでしょう』

 …深い。
 己の器が狭いのね、ワタシ。
 何ごとも受け入れる、懐の大きな人間。己の器の広い人。
 ソウイウヒトニ、ワタシハナリタイ…。
 …と思っていたら、疎遠になった友人と交差するように、私は、私を「大切」だと思ってくれる友人と知り合った。

 懐深き、器の広い人。
 傍にいて、話していて、ふと何気ないそのひとの気質に触れたとき、
 「あなたのような人間になりたいなぁ」
 と、言うと、
 「そのまま(の性格)で、いいんじゃない?」
 と、その人は言った。
 性格なんて一朝一夕で出来上がるものじゃなく、直すといっても簡単なことじゃない。
 大事なのは、自分が自分を愛してあげること。
 あとは、波長だと。
 自分が楽しい電波を出していれば、おのずと人が集まる。 
 それこそが、本物の友人でしょ、と。

 少し前に、別の友人も似たようなことを言った。
 「自分の長所と短所なんて、表裏一体だからね」とか。
 「自分のチャンネルと同じチャンネルの人間が周囲に集まるものだよ」とか。

 確かにその人と出逢ってから、また他の、とても波長の合う人と友人になれた。
 人との出逢いは不思議なもので、こうやって人は出逢いと別れを繰り返していく。

 この世に、無意味な出逢いなんて、ひとつもない。
 もちろん、心地良い出逢いだけではなく、苦い別れもある。それでも、私は人と出逢いたい。
 男とか女とか性別に関係なく、ただ「大切だ」と思えるひと。
 そういうひとと、出逢いたい。交流したい。心を通わせたい。

 ガラクタか、ダイヤモンドか?

 自分にとって、必要で、大切で、失いたくない、かけがえのない人は、誰が何と言おうと、自分にとってのダイヤモンドだ。
 道端に転がっている石っころのようなガラクタな自分も、見る人によっては、ダイヤモンド…には程遠いけど、水晶のカケラくらいには見えているかもしれない。
 この世で、この目で、ダイヤモンドを見つけだせる奇跡。
 素敵な冒険であり、発見だ。新種のダイヤモンドを掘り当てるかもしれない。

 明日も生きているか、確証がないからこそ、今日一日が大切に思える。
 カレンダーをめくったとき、「あれ? 今日あの子の誕生日だっけ」と思い出してもらえる存在。
 天災があったとき、「そっち大丈夫だった?」と心配してもらえる存在。
 何気ないときに、ふっと「あの子、元気かな?」と思ってもらえる存在。
 空を見上げるとき、月を仰ぐとき、この空の下のどこかで、元気に生きていて欲しいと思える存在。
 友人がそう思ってくれるように、私もみんなのことを思いたい。
 それこそが、シアワセ。
 それこそが、大切。
 だからこそ、人生は楽しいね。


 今日、私の携帯は、届いたメールでいっぱいだった。
 mixiメールにも、パソコンメールにも、「誕生日おめでとう!!」とメールをくれた友人たち。
 遠く離れて、年に一度逢えるか逢えないかの友人からもあった。
 嬉しくて、嬉しくて。
 365日の中の1日。
 何の変哲もない1日が、「おめでとう」で満たされる…。
 みんな、ありがとう。
 いつ、どこへ飛んで行っちゃうか、先のことはわからないけれど、とりあえず今の私は、静岡の地で元気に暮らしています。
 

 そして、このブログを読んでくださっているすべての皆さまに、愛と感謝を込めて。

 ありがとう!!



 さて。それでは、お茶にいたしましょう。(←おお、久々のフレーズ!!)
 誕生日だから、ワインでも。…と思いましたが、何と、このブログを書いてる間に結構な量のワインを飲んでしまいました。
 なので、新茶なぞ。
 セシウム検出で、揺れているお茶業界。
 だけど、そんなこと言ってたら空気だって吸えなくなる。
 赤ちゃんや子供には、将来どんな影響が出るか未知数だから控えるとしても、私は「このお茶は危険だから飲むな」レベルのものでない限り、普通に飲みます。
 今年の新茶は、今年だけのもの、だからね。


2011-06-10 23:07  nice!(2)  コメント(3)  トラックバック(0) 
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kumasu

遅れましたが…
お誕生日おめでとうございます!
そうですかーお誕生日の前日でしたか。ビビッと猫たぬきさんを思い出したのは(笑)

益々飛躍される一年でありますように(^0^)/
by kumasu (2011-06-13 13:55) 

猫たぬき

kumasuさん、おひさしぶり!!^^;
コメントとnice!ありがとうございます^^;
そうなの。「あれ? コメント来てる」と思って見たらkumasuさんで、しかも「ふと思い出して」とのこと。あ~、何か繋がってるなぁ…って、ありがたく思いましたよ^^;

何だかね。モノ書きの役に立つかなと始めた照明が、ホン書くよりも夢中になってるという、本末転倒なていたらくです(笑)

by 猫たぬき (2011-06-17 02:32) 

猫たぬき

お久しぶりです、COLEさん^^;
nice!ありがとうございます。まったくブログを開いていなかったので、いつお越しくださったのか気付かず…。
COLEさん、お元気でしょうか?
人生いろいろあるけれど、とりあえず、私は静岡の地で生きてます^^;
by 猫たぬき (2011-09-17 00:35) 

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