「感情」と言う名の、どうにもならないもの。 [演劇の話]
なぜか「ワルツ」を勉強しなくてはならなくなりました……。
どうも、いらっしゃいまし。
甘い紅茶を一杯、いかがですか?
先週のことになりますが。
このブログで告知していた演劇、11月25日、静岡のフリーキーショウで、ふたり芝居「雨」を上演いたしました。
何が嬉しいって、やっぱり自分の書いたものが「芝居というカタチ」になるということ、それを「お客さんに観てもらえる」ということ、これに尽きますな。
もひとつ嬉しかったことは、予想以上にお客さんが観に来てくれたこと。
小さな演劇公演というのは身内(家族とか友人とか)が多いもので、事前に携帯に「今日観に行くね」とメールをくれた友達数人と、K氏と私の所属する「みかん遊演団」のみんなと、Mちゃんの所属する某劇団の人たちが観に来てくれるくらいかなと思ってた。
「11月25日に演劇やるんです」と、軽く知り合いや友達に話してはいた。ただ今回はチケット制の芝居ではなく、お代は観てのお帰りの投げ銭方式なので、積極的に人を呼び込もうとは思ってなかった。
それが。
声を掛けた人のほとんどが観に来てくれた。
中には、9月に一度話しただけの人もいる。
まぁ、時間をキッチリ伝えてなかったから、芝居が終わったあとに来られたのだけど。芝居が終わったことを伝えると、「じゃ、もう一度やりましょうよ」って。……いや、そりゃ無理ですってば(笑) でも、2ヶ月も前の話を、キチンと覚えていてくれたんだと思うと、ありがたいなぁ。
忙しい中、仕事を終えて急いで駆けつけてくれた人、仕事を途中で抜けて観に来てくれた人、明日から出張なのに時間を作って観に来てくれた人、フリーキーの場所を知らないのに店を探しながら来てくれた人。
観に来てくださった皆さま、本当にありがとうございます。
「ありがとう」ってとても素敵な言葉で大好きなんだけど、このヒトコトでは感謝は言い尽くせないくらい、嬉しい。もっと他に心に響くセリフはないものかしら?
さて。
焼きいもは熱いうちに食え、感動はアツイうちに書け、と言うことで。(K氏の「即興朗読」を聞いてると、さらに笑える小ネタです)
今回の演劇。
K氏とMちゃん、ふたりの役者によって支えられた芝居です。(名前バレてるのに、シツコク伏字)
観客の中には、もちろん役者や演劇に詳しい人も居て。そういう人には、一発で見抜かれてしまいます。「演出がなってない」、ということを。
前回の告知にも、「私の演出は全然なってない」ということをみずから告白してますが、私には「作・演出」の両方をやるには、まだまだ力不足だと思い知らされる。
作品に感情移入し過ぎる性格も良くない。まず、「客観視」を学ばないと。あと、絶対的に足りないのが「自信」なのか?
私が今回した「演出(もどき)」は、ふたりの登場人物の「気持ちの流れ重視」。
TっちやMちゃんが言う、「どう見せたいの?」「何を見せたいの?」というものはなくて、登場人物の気持ちが一番大事というスタンス。台本に書いたセリフと、生い立ちの履歴書で、役者に「アナタの考える登場人物」の感情を探って欲しい、と思ってた。私が考える登場人物と、あまりにかけ離れていたら口出しするけど、基本、私は「役者の考える登場人物」を優先したい。変えていびつになるより、気持ちを流したい。
う~ん、でもそれが、「演出してない」「役者に丸投げ」ということになるのだと知ったけれど。
演出って、例えて言うなら指揮者みたいなものなのかな?
役者にどうこう言うのではなく、ふたりの息をピタっと合わせる。
今回の芝居は、技量の高い役者ふたりに演じてもらったから成立したと言えるかもしれない。
確かに。
オーケストラの音楽も、指揮者次第で全然違うように聴こえるし、シェイクスピアも、演出次第で全然違うテイストになる。
それが演出の個性というやつか?
じゃ、私の芝居は限りなく無個性なのかなぁ。
「舞台は演出ありき」と、言う人もいるだろうけれど。
もちろん、そういう演劇がおもしろいことも知ってるけれど。
単に「気持ちを流す」というのは、演出とは言えないのだろうか?
舞台では、脚本で生み出されたひとりの人間の人生の時間を、少し切り取って演じる。
その人には生い立ちや過去、きちんとしたバックボーンがあって。演劇のこの時間だけは、その「登場人物」が「自分」になる。
脚本上で二次元の人間が、役者によって三次元になり、肉をまとい血が通う。それに感情を流すと、「生きた」人間になる。狂った人間であっても、歪んだ理不尽な考えをした人間であっても。
ふたりの役者が、それぞれの「生きた人間」を演じる。
その「感情」を表現したかった。
ひとりの人間としての考え、生き様。「どこをどう見せる」とかではなくて。観客がストーリーのどこで、どのセリフで、どの感情で、どう感じてくれても構わない。
行動には、理由がある。
感情があって、人は動く。
……たとえそれが、正しい行動ではなかったとしても。
それが、今回の物語「雨」の主人公、「恭介」の感情である。
「感情」と言えば。
舞台の話とは全然関係ないけれど。
私は、公演当日、押し込めてきた「ある過去の感情」のフタを開けてしまった。
行動を「する」にも感情があるが、行動を「しない」ことにも感情がある。
私は、人前に出ることが苦手で。いや、苦手というより、はっきり言って「嫌」なのだ。
何故か?
感情にも理由がある。
「嫌」な理由は、遥か遠い遠い昔、私が高校生の頃に遡る。
その頃の負の感情は、あまりにも痛すぎて、心の片隅の箱の中に押し込めて閉じ込めて、上から厳重にフタをしてしまっておいた。そうしないと立っていられなかった、と言っても過言ではないかもしれない。
「そんな負の感情なんて忘れてしまえばいいのに」と言う人もいるけれど、初めて転んでケガをしたときの痛さを覚えているから、転ばないようにケガしないように気をつけるように、少なくとも私は、簡単に痛い思いを忘れることは出来なかった。だからせめて、普段は思い出さないように閉じ込めておいたのだ。
そのフタを開けてしまった。
あれは、23日の稽古が終わってから、3人で雑談をしていたときのこと。
当日フリーキーでの準備のあれこれ。人前に出る出ない、挨拶するしないの話をしていたとき。
私がどうしてこんなに人前に出ることを頑なに拒否するのか? K氏やMちゃんはその理由がわからないし、知らない。
私は。自分自身の中にあるその根源を知っているけれど。
思い出したくないし、話したくない。閉じ込めたものを掘り起こしても、そこから出てくるものは負の感情でしかない。それなのに思わず感情が高ぶって、みずからそのフタを開けてしまった。
次の日、24日は稽古がなくて。でも、そのことがずっと頭から離れなかった。不用意に開けてしまったフタが徐々に開き始め、中から負の感情が出てくるのがわかる。
一番誰かを求めているくせに、誰とも話したくない。音も音楽も何も欲しくない。音のない部屋の中にじっとうずくまって、ただ時間が過ぎるのを待つ。理由はたくさんある。決してひとつだけじゃない。思い出したくない記憶というのは誰にでもひとつやふたつ存在するだろう。普段は忘れているつもりでも、心の奥底に眠らせた記憶がある。
25日。本番前の最終稽古。
完全に開けてしまった箱の中から、生のままの感情があふれ出した。
想像力(妄想力)があり過ぎるのは、こういうときに困る。
あの日、あの瞬間の、情景が、感情が、まるで今、目の前で起こっているかのように鮮明に思い出されて、膝が震えて、動悸が早くなる。涙腺が緩んで、今にも涙があふれそうになる。
人に話せば、「何をそんなちっぽけなことで」と思われるかもしれない。そんなマイナスの感情をずっとずっと引きずっている方がバカバカしいと思われるかもしれない。だけど、人が何によって傷つくのか、それは人によって違うものだ。
ホントは。
話している途中に止められるかと思ってた。
例えばK氏に「そんな話は聞いてない」とでも言われるかと。(確かに、本番前にそんな暗い話をされても……と思うだろうしね)少なくともMちゃんは内心止めようと思っていたらしいし。(芝居前に、当然と言えば当然のことだけど)
でも、ふたりとも最後までキチンと聞いてくれた。
どうして私が人前に出ることを頑なに拒否し、怖がるのか、その理由を。
私は今でも自分のことを「人が好きな人見知り」と称するけど、その昔、人が怖かった。
一対一で人の目を見て応対するのであればそれほど怖くないけれど、たったひとり、人前に晒されると、人の視線が鋭い刃物のように、自分の肌を刺すように感じられた。膝が震えて、動悸が早くなり、その大勢の中の誰とも視線を合わせられない。声も出せない。作り笑いさえ、強張ってしまう。だから人前に出られない。
もちろん、その感情だけを引きずって今に至ってるわけじゃない。
今は、人を好きだと思えるし、日々出逢える人に嬉しさと温かさを感じてる。
例え、緊張して手に汗をびっしょりかいていたとしても、笑える自分がいる。ハッタリかもしれないけど、演技じゃない。その人と話したい、話すことが嬉しい。人と出逢えることの喜びの方が、怖さよりも勝っているから笑える。人を好きだと心から言える。
だが、怖くないと言えばウソになる。
私の中には、常に、好きと嫌い。喜びと恐怖。相反する感情が同居してる。
怖いけど、嬉しい。怖いけど、楽しい。怖いけど、人と関わっていきたいんだ。
それなら。
K氏やMちゃんの言う通り、「いらない記憶は捨てて(忘れて)しまえばいい」かもしれない。
しかし、感情ってやつは、自分の思い通りにならないから厄介なものなので。
「怖い」と思った瞬間、その感情は決定される。
お化けが怖いと思ったら、大人になったって怖いはず。
大きなケガをしたら、完治したとしても、うっすらと傷痕が残ってしまうように。
雨の日や気温の変化で古い傷が疼くように。
忘れよう、忘れてしまった、と言い聞かせていても、どこかでそれを記憶してる。何かの拍子にそれが顔を覗かせる……。おそらく、それは理屈じゃないんだ。
もちろん、K氏もMちゃんも、私を困らせたくてイジワルしたくて言ってるわけじゃない。
人が人に苦言を呈するときは、その人のことを思ってのことだ、と知ってる。
誰しも、どうでもいい人のために、ムダな労力を使わない。話す、ということも立派な労力だ。
私はK氏やMちゃん、その他いろんな人に支えられて生きている。
フリーキーで、芝居が終わったあと。もう一度舞台が明るくなって、役者や脚本・演出の紹介をする場がある。
私は去年、怖くて思わず逃げてしまったけど、今年は。
壇上にあがることはしなかったが、人の視線を受け入れることが出来た。でもやっぱり少し怖くて、慌ててお辞儀をして下を向いてしまったのだけど。
頭上に降り注ぐ視線も拍手も、決して刃物ではなく、優しい雨音のような響きを持っていた。
怖いと感じたあの時間のまま、記憶はとまっているけれど、時間は流れているのだな、と。
もうそろそろ呪縛(?)から解き放たれてもいいのかもしれない。
完全に忘れてしまうことは出来なくても、濃度を薄めることは出来る。
泣いて、涙で毒を外へ押し出す分だけでも、きっと違う。
感情を言葉にして、声に出して、聞いてもらった分だけ、心が軽くなった。
「感情」は、確かにどうにもならない厄介なものだけど、「怖さ」を上回る「温かさ」で、負の感情は溶けてなくなることもあるかもしれない。
みんなの優しさが、呪縛を解き放つ魔法になる。
前に、自分で書いた脚本の中のセリフ。
「自信とは、自分を信じることだ」
何とも当たり前の、ありふれた言葉。
誰に対してのメッセージでもなく、おそらく自分自身に言い聞かせるがために書いたセリフ。
まず自分が自分を信じてやらなければ、他の誰に信じてもらえるというのか?
自分が自分を愛してやらなければ、他の誰から愛されるというのだろうか?
少しずつ、少しずつ……。
とりあえず、「でも」「だって」「どうせ」という言葉を使うのをやめるように、努力しよう。
そうしたらいつか。
人前で挨拶くらいは出来るようになれるだろうか?
「だろうか?」じゃなく「なれる」。
いや、「なる」んだ。
そう自分にハッタリかまして、暗示をかけなきゃね^^;
それではお茶にいたしましょう。
11月25日が終わったら、ゆっくりお茶が出来ると思いきや、何だかんだと忙しく、お茶も競馬もゆっくり出来ない。
ちなみに今年のジャパンカップは際どいレースでしたね。ウオッカか? オウケンブルースリか?! ハナ差でウオッカが勝ったけど、ゴール前、思わず力が入ったなぁ。
それと、冒頭でも書いたけど、なぜかいきなり「ワルツ」を教えることになりまして……。
しかし私がソシアルダンスを習ってたのって、もう10年以上も前の話で。しかも、「かじった」というよりも、「なめた」程度の、ホントに基礎の基礎の基礎でやめてしまったのに。
「適当でいいんですよ」なんて言われても、やるからにはカタチにしたいコダワリもあって。
ソシアルダンスの世界選手権のビデオを見ながら、お茶を飲んでいる。
ワルツには二種類あって、「スロー・ワルツ」と「ウインナー・ワルツ」、ゆっくり踊るのが「スロー・ワルツ」で、アップテンポの舞踏会で踊るようなのが「ウインナー・ワルツ」。
なので、本日は「ウインナティー」を。(単に「ウインナ」という言葉を使いたかっただけか?)
ゆるめに泡立てたホイップクリームを、少し濃く淹れたアッサムティーの上にとろりと乗せる。
甘くて濃厚なミルクティーのようで、疲れたときにピッタリです。
それではまた次回、お逢いしましょう……♪
共通テーマ:演劇
大変ご無沙汰しておりました(汗)
ってか。
ほんとは”nice”押し逃げするつもりでおりました(おい・怒)
なのに。
ああ、どうして猫たさんとはシンクロしてしまうのでしょう(苦笑)
なっちん、ただいま”それ”と格闘中です(笑)
「要らないのに捨てられない、思いっきりの負の記憶」。
やっと、「怖い」ことと認識して、向き合うようになったトコロでございます。
何だか。
そろそろお会いできそうな予感がいたします(^^)v
by なっちん (2009-12-06 18:58)
自らの可能性を信じて・・・・
by COLE (2009-12-06 20:45)
こんばんは、なっちん^^; 超お久しぶり~!!
nice!の押し逃げでもいいけれど(元気にしてることがわかるから)コメントくれるとやっぱり嬉しいよ。
携帯電話や、たまにネットカフェから繋いでる人がいるんだけど、「もしかしてこれ、なっちんかな?」とか思ったりしてた。PCクラッシュしてから復活してないって言ってたもんね。
誰にでもあるよね、「捨てられない負の感情」って。
捨ててしまえずしまっておくっていうのは、「いつか向き合う覚悟」があるからかもしれない。「無知の知」じゃないけれど、「怖いことを怖い」と認めることが出来るから、強くなれるのかも。
今回の舞台のセリフで書いたんだ。
「あんたは、強いんだな」
「強いんじゃないわ。……強くなったの」
目の前に立ちふさがるもの(負の感情)を、越えることが出来れば、人は強くなれる。そう信じてる。
がんばれ、なっちん^^;
いや、がんばるのは私もですが(笑)
逢える予感がある?
じゃ、きっと逢えるよ^^; そういう機会があるはず。
「人は、出逢うべき時に、出逢うべき人と、出逢っていく」ものです。
by 猫たぬき (2009-12-08 03:57)
こんばんはCOLEさん^^; nice!ありがとうございます。
励ましのお言葉、嬉しいです。
褒められたら喜んで、助言されたら素直に受け止める。
「でも」「だって」「どうせ」は言わない。
そういう「簡単で一番難しいこと」を、呼吸するように素直に出来るようになりたいです。
人の可能性は無限にあって、それを自分で天井を決めてはいけない。ましてや他人に決められるものでもない。
可能性を信じます。
そして、焦らずゆっくり進んで行きたいと思っています^^;
by 猫たぬき (2009-12-08 04:06)
明けましておめでとうございます、somemonoさん^^;
お元気ですか?
nice!ありがとうございます♪
by 猫たぬき (2010-01-01 01:21)