「私は不幸です」と言う人の、本当の不幸。 [日々思うこと]
今年最後の芝居を観に行きました。
どうも、いらっしゃいまし。一杯、いかがですか?
いや~、年の瀬ですなぁ。
なのに、今月最初の更新です。……って、今年あと一週間も残ってないやん(笑)
というわけで、猫たぬき的、今年一年を振り返ってみましょう。(もう年内更新しないつもりか?)
今年は「芝居」に目覚めた年で、今までの人生の中で一番「芝居小屋」に足を運んだ年でした。
パンフレットやチケットは大事に残しておく主義なもので、(だから部屋が片付かないんだよ、と自分ツッコミ……)今年観た舞台は、ひいふうみい……11回。約月イチペース。私にしてはすごい。なぜならワタクシは比較的広い映画館も辛いくらいの「閉所暗所恐怖症」でして、「狭くて暗い空間の中に閉じ込められる」というのは私の中では拷問に等しかったのですが、「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」で、「芝居を体感したくば、芝居小屋へ足を運べ」というわけで……。いやはや、なせば成るもので、今では一時間ちょいくらいなら狭い空間も暗い空間も平気になりましたさ。人間、変われば変わるものですな。
で。
芝居は夜公演なので、時間つぶしついでに髪を切りました。
結構長くなりすぎてうっとうしかったし、お風呂上りに髪を乾かすのに時間もかかるし、それより何より、お笑いの「ハイキングウォーキングのQ太郎」に似てきたような気がして……。(いや、もちろん顔じゃなくて雰囲気がね。別に「卑弥呼さま~」をやるわけではないですよ)
ま、新しい年になる前にバッサリといっちゃいますか!! と思って、本当に肩のところでバッサリと切ったら、今度は「金太郎」になっちゃいました……。(いや、もちろん雰囲気がね。別に「マサカリかついで熊に乗ってる」わけじゃないですよ)
ま、ふざけた話もオチがついたところで、(どこが?) 本日のお題にまいりましょう。決して忘れていたわけじゃないのよ。本日のお題、「本当の不幸は誰が生み出す?」です。……前フリと何の関係もないやんってツッコミはナシよ(笑) でも、もう少しだけお芝居のお話を。(シツコイ?)
今年最後に観たお芝居は、「演劇ユニット白ぱん」さんのお芝居でした。実は、このお芝居を観たいな~と思ったキッカケは、惹き付ける宣伝文句もさることながら、脚本・演出「ぱんだ師匠」ってのを発見した時(笑)
「ぱんだ師匠」って!! なんてナイスなセンスのペンネーム。
何故「ぱんだ」にそこまで反応するかって言うと、「ぱんだ」ってのは、ワタシの中ではすごく位置付けの高いものでして。もし、もう一度何かに生まれ変わらないといけないなら、私は貝になりたいわけではなく(笑)、「パンダ」か「木」になりたいと思ってますのでね。(長くなるので、この話はまたいずれどこかで)
なので、「ぱんだ師匠」の書くものは、どんなユニーク系のお芝居かと思いきや、意外や意外にシリアスなもので、
「神は7の7乗の七日間で地球を創った」
……そんなセリフで始まるお芝居でした。(「地球」だったか、「宇宙」だったか、「この世」だったかは、うろ覚えなんですが)
神が出てくるからといって別に宗教くさいお話ではなく、難しいけどおもしろいお芝居でした。
何となくね。この芝居を観て、来年の「自分がすべきこと」を見出せたというか、一年の計は元旦にありというけれど、ひと足早く訪れたな、と、そんな感じ。今年の終わりにイイモン観たな、と。
長いこと「芝居ネタ」で引っ張ったのは、「髪」と「神」を引っ掛けてオチをつけたかったわけではありません(笑)
さて、本題。(やっと?)
芝居が始まる前に隣に座った人が、奇しくも先日観にいった某大学の演劇部の人だったので、「失礼ですが、先日のお芝居に出演されてらした方ですよね?」と物怖じもせず話しかけて、芝居が始まるまでの数分間、オハナシをさせていただきました。
その先日観た某大学演劇部の彼らのお芝居は、いわゆるジェネレーションギャップなのか、芝居の好みなのかはわかりませんが、どうにも最初にノリ遅れたら、最後までノレないというモノだったので、その感想なんかをいろいろと。
この、「全く面識もないヒトに堂々と声をかける」という行為は、私のクセのひとつなのですが、図々しいのか、怖いもの知らずなのか、単なる「変な人」なのか。こればっかりは自分でもわかりません。(何せワタシは、自分で自分の性格を、「小心者の人見知り」だと思っていますので……。ま、他人の評価は真逆なんですが)
何というか、「人」って一瞬で決まるのね。
「とっつきやすい人」か、「とっつき難い人」かの判断って。
私が人を見る時は、まず「目」であり、目を見た一瞬で、ほとんどニ分割できる。
まぁ、「とっつきやすい人」と思ってるのは私だけで、向こうは「何だ?! この変なヤツは」と思ったかもしれませんがね……。
実は、前にもこの某大学の演劇部の別の学生さんとオハナシしたことがあるんですよね。
これも私から話しかけたな~。
この人も、やっぱり決め手は「目」だけどね。
やっぱね。「目は心の窓」だと思う。
芝居をしてる人のみならず、「目」に魅力のある人っていうのは、どこか違う。
姿形、性格、醸し出す雰囲気、何もかもが違うのに、「目」に力のある人っていうのは、どの人も
魅力的である。
今回のお題「ホントの不幸は誰が生み出す?」にした理由は、「目」について言いたいことがあったから。昨今のニュース映像を見てて「あれ?」と思うからなんですな。
この不況の中、連日ニュースで聞くのは、「内定取り消し」や「派遣の契約打ち切り」という言葉。
確かに、どちらもニュースとして取り上げるべき内容であるし「内定取り消し」は学生の将来に支障をきたすものだし、「派遣打ち切り」は、契約期間を残して何の違約金も出さずして一方的に打ち切るあたり、会社側にも存続の問題如何もあるだろうけど、その仕打ちたるや、「人として」いかがなものか?と思うわけですよ。
今回は「ニュース関連に思うこと」ではないので、詳しくは書かないつもりですが、毎日毎日ニュースを見てて、ひとつ思うことは、そんな「人として」ヒドイ扱いを従業員にする会社は、いずれ不況を乗り越え会社が持ち直したとしても、モノは売れない気がするんだよね。
忘れてはいないか? 彼ら従業員も、その家族や友人知人も、消費者のひとりである、ということを。
風評が、どれほどの威力を持っているかということを。
多額の宣伝費をかけて、CMで商品の売り込みをしたとしても、従業員の不当解雇なんて連日
ニュースでマイナス宣伝をしているがために、決してプラスなイメージは生まれない。
そのモノを売ってる会社は一社だけじゃない。
誰もが思う。「何も、こんなヒドイ会社から買わなくてもいいだろう」、と。
「因果応報」というか、何というか。
景気が持ち直して生産が増え、いざ従業員確保となったら、過去にそんな「人間を使い捨て」するような会社に行きたいとは思わない。従業員の不当な扱いは、そのまま会社の質に、そして大事な利益にまで、如実に反映される気がする。
さてさて。ちょっと話がズレたので戻しますね。書きたい題材が多くて、それをまとめて書こうとするから話があっちこっち飛ぶんだよね(笑) 今回は「会社側」について書きたいわけじゃないので、その問題はまたいずれ書く機会があれば。
今回私が言いたいことは、彼ら(被害者側)の「目」である。
「目」が二極化してると思うんだな。
強い目をしてる人と、どんよりした目をしている人に。
確かにね、この不況に「キラキラした目」の人が巷に溢れているとは思わないけれど。
「内定取り消し」の憂き目にあおうが、「契約打ち切り」の憂き目にあおうが、「目」に強さがある人は、もうすでに次のことを考えているように思う。
実際の街の声にしても、憂き目にあった本人でも、「目」がすでに先を見ている。
「許せない!!」と声を荒げて抗議をする前に、次へ次へと自分のすべきことを考えている。(だからといって別に、会社に抗議する人を批判しているわけじゃないですよ。不当解雇には、社会的罰則があって然るべきだとも思うし。ただ、今回は強い目をしてる人に対しての私的意見を言ってるだけです)
彼らの目は、「今」「この場」に留まってはいない。
「寮を追い出される」と嘆くかわりに、さっさと格安で住めるところを探し出し、次の仕事を何が何でも探そうとしている。その必死さは、目の力の源である。
悩もうが嘆こうが、現実は変わらない。だったら次へ進むしかないじゃないか、という意思が目を通して見えてくる。
そういえば。(また話が飛ぶのか?)
「麻生総理が就職相談に乗る」という、どうにもこうにもヤラセめいたパフォーマンスの中で、「何がやりたいのかちゃんと言えなきゃ、仕事なんてあるわけない」みたいなことをテレビで言っていたけど、これってどうなのよ?と思うね。今が好景気の時代ならいい。的を得ているアドバイスかもしれない。(相手をしていた求人者もガツンと不満を言ってやればよかったのにね。もしかして用意したサクラか?)
しかしね。世相を見てよ。「今の仕事キライじゃないんだけど、何かイマイチなんだよね~。もっと他にイイ仕事あったら転職考えてみよっかな~」的に相談に来る人なんていない。仕事をなくすことはおろか、住むとこさえなくなるかもしれないっていうご時世に、何を呑気なこと言ってんだか。空気が読めなかったり漢字を読み間違うくらいは別にどうでもいいけど、国民が何を求めているのか? どうして苦しんでいるか? 今の不況の折、世相を読めないってのは、党の支持が得られないことは当然の如く、総理の資質としていかがなものか?って思うんだけどねぇ……。(ま、誰々が総理になったら日本は劇的に変わるってこともないんだろうけど)
ま、それはさておき。
先を先を読む力。(本来、政治家が一番持ってるべきなんだけどね、この力)
もちろん時代は予想通りにはいかない。予想のつかないアクシデントは多分にある。
でも。
その先、もっと先、目標へ向かって突き進んでいる「目」をしている人は、きっと何があってもへこたれない。どんなアクシデントも越えていける。
目の奥に、その「輝き」がある。
それは、「夢」であったり、「目標」であったり、人それぞれ違うものだけど、「今」より先の「明日」を見ている人は、目の奥に「輝き」を宿している。
衣食住が足りて、人生が安泰な人だから「夢」だの「目標」だの言ってられるんだ、と思うなかれ。
資本主義のこの世の中では、誰もが安泰じゃない。
社長も、大企業の正社員も、専業主婦も、みんなみんな「明日も安泰」というわけじゃない。
何が起こるかわからないのが人生だし、この不況の世の中じゃ、どんな職業の人だって一寸先は闇なのだ。
ちなみに我が家の殿は、今はひとりで仕事をしているけど、派遣社員も経験している。
普段は正社員と同じように働かされ残業もさせられ、ほとんど正社員並みに仕事の責任を負わされているのに、ボーナスシーズンはカヤの外。一寸先は闇だということ、それを殿はシッカリ体感している。
会社が自分を捨てる権利(リストラ)があるということは、逆を言えば自分が会社を捨てる権利
(転職)もあるということだ、と。
会社にドップリと浸かって安穏としていると見えなくなるけれど、常に自分の立ち位置を見極めておけば、どんなアクシデントがあっても慌てることはない、と。
聞いてみる。
「もし、今みたいな派遣打ち切りみたいな目にあったら、どうする?」と、さらっと答える。
「さっさと見切りをつけて、次探す」、と。(おおっ!! さすがワタシが「目」で選んだオトコ!!)
さらに突っ込んで、「会社を恨んだりしないの?」と聞いてみる。
すると……。
殿曰く、
「会社は王国と一緒で、社長が一番偉い。しかし、日本の会社は一社だけじゃない。今の会社に必要とされないからって、世間すべてから不必要な人間と思われているわけじゃない。別の会社に必要とされれば、それでいいのだ」、と。
……何だか、最後がバカボンのパパ風になりましたが、殿はいっつもこんな感じです(笑)
会社で考えるとわかりにくいなら、恋愛で考えてみよう。
「嫌い」って言われてる人に付きまとってたら、ストーカーと言われてしまう。
でも、「嫌い」って言われたのは、その人ひとりだけであって、世間の異性すべてに嫌われたわけじゃない。他へ目を移せば、別の人が、「好きだよ」と言ってくれるかもしれないのに。
主婦だって、いつ「離婚してくれ」と夫から言われるかわからないわけで。(嫌な想像だなぁ)
そんな時、「離婚なんてしないわ!!」としがみつくのは、いかがなものかな~と思うのよね。だってもう相手は自分に対して愛情がないって言ってんだもの。一緒に暮らすのが苦痛だって言ってんだもの。そんな家庭、幸せじゃない。
「不幸」
読んで字の如し、「幸せじゃない」ってことだけど。
自分で自分のことを不幸だって嘆いている人は、本当に不幸なのかな?
リストラされたり。
恋人に振られたり。
配偶者から離婚を切り出されたり。
「不幸」なことはいろいろあるけど。
自分で自分を「私はこの世で一番不幸だわ!!」と嘆く人は、たぶん本当の意味で不幸じゃない。
なぜなら、「自分を不幸」だと言う人ほど、その「不幸の原因」を他へなすりつけがちだから。
リストラする会社が悪い。社会が悪い。
私を捨てた恋人が悪い。
離婚を言い出す夫が悪い。
リストラと振られた話を一緒くたにするなよ、と思う人もいるだろう。
だったら、秋葉原事件や、渋谷の傷害事件をどう思うのだろう?
「不幸」の根っこはみんな一緒。自分の不幸に酔って、他に責任を転嫁する。
そして、平然とこう言うのだ。「自分は悪くない」、と。
自分の不幸を、まったく何の関係もない、何の罪もない人々を刃で傷つけ、殺した罪人は、赦されるのだろうか?
「自分の不幸」を、「誰か」のせいにしたがる人間。そして実際に「何の関係もない人」を傷つけて、のうのうと生き残っている罪人。
街中で笑っている人、世の中のすべてが許せないって、それって自分勝手なんじゃないの?
生涯の中でただ一度も笑ったことがない人はいない。今、「不幸だ」と嘆く人も、昔は笑っていた。自分が笑っていたときに、他人が泣いている姿は目に映らない。自分が不幸だと感じるようになって改めて周りを見回したとき、他人の笑った顔が憎いって、それって何だ?
「不幸」という名のもとなら、何をしても赦されるのか?
「不幸」に酔っている人間なら、罪を犯して赦されるのか?
街中で、幸せそうに笑っている人たち。彼らにも、それぞれ背負っている人生がある。笑っているからって、すべてに恵まれている人ではないかもしれない。
笑い顔にもいろいろある。
辛いことも、苦しいことも、すべて呑みこんで笑っている人だっている。
「幸せそう」なんて、周りが勝手に作り出す幻想に過ぎない。
そんなマイナスの感情を呑みこんで、それでも一生懸命がんばっている人に対して、己が不幸に勝手に酔っている人間が、刃を向ける権利などありはしない。
私は、「幸せ」も「不幸」も自分の内側から生まれ出てくる感情なのだと思う。
他人からどんなに「不幸そう」に見えても、本人が幸せなら、それは「幸せ」なのだ。
周りから羨ましがられ、妬まれるほど「幸せそう」に見えても、本人が幸せを感じられないのなら、それは「不幸」だ。
「幸せ」と「不幸」が、「望むモノ」と「得られるモノ」の兼ね合いなのだとしたら、「不幸」とは、何かを望みながら、それを得られず、そしてその鬱屈した思いが、すべてマイナス方向へと流れてしまうことだ。
生まれてから死ぬまで、順風満帆で人生を送れるわけじゃない。
思い通りにならないことも、望み通りにいかないことも多々ある。
しかし、自分の「不幸」に酔わない人は、何事もプラスに考えていける人は、苦境をもバネにして、もっと高みへとあがっていけるのだ。
目の奥に「輝き」がある人。
目の前の現実を素直に受け止め、次へ次へと進んでゆける人。
その先には、「夢」があり、「目標」がある。
だから、こんなところで立ち止まってはいられない。
上流の川の水が澄んでいるのは、絶えず流れ続けているから。
流れが止まると、どんどん澱んでいく。あるいは腐ってドブになる。
ここで終わる人生であってはいけない、とわかっている人だ。
……何て。
こんなことを書いている自分も、昔はよく不幸に酔っていた。
そんなときいつも考えるのは、「私が不幸なのは○○のせいだ」ということだった。
常に誰かのせいにして、何かのせいにして、自分の不幸は自分のせいじゃないと思い込んでいた。いや、思い込みたかったのかもしれない。「自分は悪くない」、と。
だけど、誰かのせいにしたって、何かのせいにしたって、ちっとも幸せになれなかった。
「望むモノ」ばかりがどんどん増えて、「得られるモノ」は何ひとつなかった。
ずっとずっと「幸せになりたい」と願っていたのに。
目の奥に「輝き」なんてひとつもない。澱んだどんよりした目をしていたと思う。
そんなある日、ふと「幸せになるために必要なものは何か?」というのを一生懸命探した。
そしたら、必要なもの、本当に欲しいものは、たったひとつだけだと気付いた。気付くと同時に、
今までの自分が如何に「ないものねだりで甘ったれなガキだったか」がわかった。
自分は何もせず、欲しいものをくれくれとねだって許されるのは、赤ちゃんだけだ。
自分の不幸を自分以外のせいにする限り、決して自分が幸せだと感じることは出来ない。
分別のつく大人である限り、誰かから奪って手に入れるでもなく、棚ボタ式に待つでもなく、自分で、何らかの努力によって手に入れなくてはならないのだ。それが、「本当に欲しいもの」なら。
何歳まで生きられるかわからないけれど、人生は結構長い。
今、「不幸」だからといって、一生不幸が続くわけじゃない。
「私は不幸です」と言う人の本当の不幸は、「幸せになるために必要なもの」を探さないことだ。
本当に欲しいものは、必ず見つかる。そして、それは手に入れられる。もちろん、誰かが「くれる」わけじゃない。自分で「掴む」ものだ。掴めなかったり、掴み損なったりした場合、それは自分にとって「そんなに必要なかったもの」かもしれない。(すっぱい葡萄かもしれないけどね)
誰だって本気で欲しいと思ったら、どうやったら手に入るのか、その方法を知恵を絞って考える。現に私は手に入れた。華やかな幸せを手に入れてる人からしたら、ちっぽけで小さなものかもしれないけど、私はそれが「本当に欲しかったもの」だから、これでいいのだ。(バカボンのパパ風に)
私は欲しいものがたったひとつだけだったけど、いくつもいくつも見つかる人もいるだろう。そんな人を欲張りだとは思わない。欲しいものが多い分、努力する数が増える。きっとその人は、目の奥に「輝き」を持つ人。私なんかが足元にも及ばないくらい懸命に努力をする人なのだから。
私の知ってる役者さんの目に力があるのは、この「欲しいもの」がたくさんあるからかもしれない。
彼らはそのための努力を決して惜しまない。何があっても「自分は不幸だ」なんて思わない。なぜなら、芝居が好きで好きで好きで、もっともっと上手くなりたくて、お客さんに笑いを、和みを、感動をあげたくて、そうしてどんな苦境をも乗り越えていく人たちだから。
こうやって書けるのは、私が一度「不幸に酔っていた時代があったから」だと思う。精神が澱んで、自分以外の何かのせいにして、逃げていたから。でも腐る前にわかってよかったと思う。そうでなければ、「幸せ」と感じる何ものにも出逢えなかった。
人間は弱いものだから、楽な方楽な方を選んでしまいがちだけど、自分が「澱んでるな、停滞してるな」と思ったら、ちょっとだけ自分にカツを入れてみる。まだ、軌道修正できるうちに。
人の人生は「目」に現れる。澱んだ目をしているより、輝いている方が魅力的。当たり前だけど。
「私は不幸です」と言ってはばからない人。
「私の不幸は○○のせいだ」と思い込む人。
まず、そこから止めることが、「幸せ」になる秘訣だと思うのです。
……自虐的に自分の暗かった昔を振り返って思うこと、だな。そういや、目も昔よりはマシになった気がする。もちろん、私の敬愛する目の奥に輝きのある人には遥か遠く及ばないですが、ね。
さて。
ここで、いつもなら「お茶にいたしましょう」と締めくくるところですが、
実は、昨日の(もう一昨日だわね)クリスマスは、ワタシたち夫婦の結婚記念日だったのです♪
15年前のクリスマスにウエディングドレスとタキシードで馬車に乗った浮かれバカップルでありました……。若かったな~、あの頃は(苦笑)
なので、今回はモエ・エ・シャンドンのインペリアルロゼで乾杯と参りましょうぞ♪
いや~、シャンパンってのは「トクベツな日」に似合いますな。
ではまた次回、お逢いしましょう……♪
共通テーマ:日記・雑感
自分のことを「不幸だ!」って思ったこと、
あんまりないような気がする(^^;)
あの”結婚生活”の時も、周りから見たら「ど」がつくくらいの不幸だったかもしれないけど、本人は生きていくのに必死でそんなこと思ってる暇がなかった(←それもどうかと思うが・爆)
ただ、「病んでた」時期はありましたねー。
今考えるとぞっとするようなこと、平気で思ってましたから(汗)
それ乗り越えたら、こんな子になっちゃいましたけど(^^;)
今年も猫たさんのブログに遊びに来られて幸せでした♪
また、そのうち「水面下」でお邪魔することがあるかも知れません(^^)
その時はどうぞよろしくお願いします♪
それでは。良いお年を~(^^)ノシ
by なっちん (2008-12-30 21:27)
こんばんは、なっちん(^^)ノ nice!ありがとー♪
この前の記事にコメしたけど、記事自体を消去しちゃったんだね。
「不幸」って思わない人の方が、周りから見たら「不幸な人生」であることが多いよね。これって人生のパラドックス(笑)
でも決めるのはいつも「自分」だから、自分が「不幸」だと思わなければ、それは「幸せ」なんだよ(^^;……意味わかんないってか?!
なっちんにも、「絶対欲しいもの=最愛の娘」っていうのを手に入れてるから、それ以外のコトは「不幸」だって思わないんだと思うよ。自分が本当に欲しいものを手に入れてる人間は、充分幸せを感じられるものだから。
こちらこそ、いつも遊びに来てくれてありがとね(^^)ノ
水面下でもヨロシク(笑)
なっちんも良いお年を~♪(^^)v
by 猫たぬき (2008-12-31 23:44)
なかなかの力作ですね!
お久しぶりです。
明けましておめでとうございます。
博打のような人生を送ると
人の所為に何でもしたくなるんですよね~。
自分で考えて進む人生は
「災い転じて福となす」で、
失敗を成功に変える事も容易になりますね。
やはり、自主自立の人生を送ろうと思えば
どんなことでも例え相手のことでも
自分の立場に置き換えて深く考えられる習慣を
身につけておく必要が有るでしょうね。
それでも十人十色で浅い深い、広い狭いがあり
一人一人の人生は千差万別だから
人の世は奥が深いんでしょうね!
何かといろいろ考えていらっしゃるんですね!
いつも感心していますよ!
by あすなろう (2009-01-06 21:43)
あすなろうさん、明けましておめでとうございます(^^)ノ
昨今の不景気は、嫌なニュースばかりを運んできますよね。
でも、その「苦境」をバネに出来るか否かが、その「人」なんですよね。何でもかんでも「何か」に責任転嫁する人は、自分でモノを考えもせず、いつも誰かが何とかしてくれるのを待って、自分で何の責任も取らない、ただ流されて生きてる、みたいな。その程度の人生しか送ってこなかったってことなのかな、と。
人生は自分で何とかしないと何ともならない。人形じゃなく人間なのなら。失敗はあっても、犯罪以外は、間違いってないんですよね。
人生の中で無駄なことは何もないんですから(^^;
そのときそのとき思うことが、暗いことだったりノー天気なことだったりしますが、常に何か考えてますね。それをキチンとした文章にするまで、時間がかかるのですが……f(^^)
nice!ありがとうございます♪
今年もよろしくお願いいたします(^^)♪
by 猫たぬき (2009-01-12 19:31)