小説「夢幻~ゆめまぼろし~」 Ⅵ [小説「夢幻」]
「本能寺」
京。本能寺。
夜半、信長が目を覚ました。
暗い部屋の中で、目が慣れるのを待つ。ゆっくりと体を起こす。まだ酒が残っているのか、したたか喉がかわく。
「・・・誰か居らんか」
信長が次の間に向かって声をかけた。
次の間から小姓の森蘭丸が声をかける。
「お目覚めでございますか」
「お蘭か。・・・水を持て」
「はっ」
衣擦れの音がして、蘭丸の気配が消える。
信長の目が、部屋の隅に飾られた花瓶に吸い寄せられた。
藤の花が一枝生けられていた。
「失礼いたします」
蘭丸が水を捧げもって部屋へ入ってくる。
信長は、美味そうに喉を鳴らしながら水を飲み、蘭丸に聞いた。
「あの藤の花はどうした」
「ああ、あれは。・・・峰どのが持って参りました。お館様のお好きな花だからぜひにと」
・・・あの藤の花の香りが、お濃の夢を見させていたのかもしれない。
「夢を見ていた・・・」
「夢・・・でございますか。お館様は、ぐっすりおやすみのようでございましたが」
幸せな頃の夢を……。
昨夜の酒に心地よく酔ったのは、久しぶりに敦盛を舞ったからかもしれない。
濃姫が生きているときは、酒の席で信長はよく敦盛を舞った。信長が舞い、濃が鼓を打つ・・・。
濃姫が死んだあとも、信長は敦盛を舞った。しかしそれは酒の余興に舞うというよりも、死を覚悟した戦の前に舞う。
そう・・・あれは、桶狭間の朝・・・。
雨降る、明け方。
信長は、城中の人間を叩き起こした。
「法螺貝を吹け!! 今宵、今川を討つ!!」
慌てて飛び起きてきた侍女たちが、信長の武具の用意をし、湯漬けの支度をする。
法螺貝の音に叩き起こされて、続々と家臣たちが城へ集まってくる。
城中が慌てふためいているとき、信長はひとり、大広間の真ん中でじっと目を瞑って座っていた。が、急にすくっと立ち上がり、静かに舞を舞い始めた。
信長の好きな敦盛である。
人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか・・・
背後で鼓の音がした。
信長が振り返る。
濃姫の老侍女、稲葉が鼓を手に座っていた。今は、信長の身の回りの世話から侍女たちの教育係を一手に引き受けている侍女頭である。
信長が急に舞を止めたので、稲葉は信長の癇に障ったと思ったのか、急いでひれ伏した。
「差し出がましいことをして、申し訳ございません。ただ・・・姫様が、濃姫さまが今、ここにいらしたならば、きっと鼓をお打ちになると思いまして・・・」
信長は口の端で笑った。
「怒っておるのではない。・・・ただ、鼓はいらぬ」
「はっ!! 失礼いたしました」
「・・・鼓は、濃が打つ」
そう言って、音のない大広間で、信長が再び敦盛を舞い始めた。
信長の言葉に、稲葉は瞬時、胸を衝かれた表情になった。
・・・鼓は、濃が打つ・・・。
信長の心に、今も濃姫は生きている。舞っている信長の耳には、濃姫が打つ鼓の音が聞こえているのだ。
稲葉の目から、はらはらと涙が零れ落ちた。
信長に湯漬けの膳を運んできた峰も、廊下で足を止め、聞こえてくるふたりの会話を聞いて、目頭が熱くなった。
……泣いてはならない!!
峰は、ともすれば目から溢れてくる熱いものを必死に押し留めた。
いつも胸に持っている、濃姫から貰った形見の懐剣を握りしめた。濃姫が、父、道三から受け取ったあの懐剣である。
濃姫は信長を愛し、懐剣は信長を守るためにいつも胸に抱いていた。それを死の間際に、峰に託したのだ。お館様をお守りせよ・・・と。
峰は強く思った。奥方様が、今ここにいらしたら、決してお泣きにならないはず・・・。
戦国の世は、いつも生と死が隣り合わせ。戦に出て行く夫の背中を見送るのが、今生の別れになることもある・・・。
奥方様はきっと、泣いて、その背中にすがりたい想いを必死に押し殺し、気丈に、そして少し素っ気なく、「ご存分にお暴れになって、尾張のうつけの名を世に知らしめてやりなされ。もし殿がこの清州の城に戻らずとも、濃は決して泣きますまい」と、言い放つだろう。
奥方様の押し殺した心の嘆きを、お館様は、その素っ気ない言葉から汲み取り、笑って言うだろう。「尾張のうつけと、蝮の娘じゃ。畳の上で往生出来るはずもない。地獄の釜の前で、再び逢おうぞ!!」そう言って、奥方様をその胸に抱きたい心を押し殺して、颯爽と馬に飛び乗って戦へとひた走っていくのだろう・・・。
峰は、亡き濃姫の心情が流れ込んでくるようで、胸が苦しくなった。
戦国武将の妻は、その身は戦に赴かぬとも、心はいつも夫と共にある。
憎まれ口を聞きながら、それでも、その心はどこまでも深く結ばれたおふたり。だからこそ、姿なき妻が、信長には見えるのだ。亡き妻の打つ鼓の音が聞こえるのだ・・・。
大広間で、ひとり舞う信長。
あの日からずっと、天下統一に向けひた走ってきた信長だった・・・。
信長は、藤の花を見やりながら、残りの水を飲み干した。
・・・この水が、信長の末期の水になるとは知る由もない。
信長は、ふと不思議に思った。
濃姫が生きていた頃はともかく、自らが酒の余興に敦盛を舞うことはほとんどなくなっていた。それが、なぜ昨夜に限って舞う気になったのか・・・?
そのとき、外で音がした。
「何じゃ?」
蘭丸が様子を見に行くために立ち上がった瞬間、鬨の声があがった。
「何事ぞ!!」
信長が素早く布団の上に起き上がった。
「確かめてまいります!!」
蘭丸が、素早く部屋を出て行く。信長も、襖を開けて外を見た。
本能寺の館をぐるりと囲むように火の手が見える。
まさか・・・謀反?! 一体誰が・・・。
信長にはすぐさま自分に反旗を翻す人物が思いつかなかった。媚を売り、すり寄ってくる人間は多かれど、今の信長に刃を向ける人間がいるとは思えない。
それだけ、信長の力が絶大になりつつあったということであり、その反面、信長に油断があったというのも否めない。
蘭丸がすぐに戻ってきた。信長の前で片膝をつき、
「謀反にございます!! 敵の旗印は桔梗の紋・・・」
信長が目を見開いた。
「日向か!!」
まさか、光秀が謀反とは・・・?!
濃姫の従兄弟・・・。
初めて対面したとき、信長は、光秀の中に濃姫の面影をみた。
涼やかで真っ直ぐに自分を見つめる瞳は、濃姫と同じものであった。
もし、お濃が男であったなら・・・この男だったかもしれない。信長は即座に光秀を家臣に加えた。
頭脳明晰。文武両道にたけ、家臣の人望も厚い。しかし肝心なところが信長とかみ合わない男だった。天性のカミソリの如き優れた頭脳を持つ信長と比べられたら、如何に優秀な武将と言えども見劣りする。しかし、濃姫と光秀をどこか重ねて見ている信長には、濃姫と同じ血を分けながら、打てば響くような才気や、豪気に欠けるところのある光秀が、信長には歯痒かった。幾度か、癇癪を起こし重臣の前で叱咤したこともある。しかし・・・。しかし、嫌っていたわけではない。自分にない温厚さを持った光秀を、認めてもいたのだ。その光秀が自分に刃を向けようとは・・・。
「お館様!! 手薄な我々ではすぐに敵に押し入られてしまいます。とにかくお逃げください。どこか一方をこじ開けて・・・」
「やはりあの男・・・。一国一城の主止まりの男であったか・・・」
お濃に似ているが、お濃ではない・・・。
信長を討ち取ったからとて、次の天下人になれるはずもない。乱世が終わるわけではない。あれほど利口な男に、それがわからぬはずもないであろうに・・・。
他に、わしを討つ理由があるというのか・・・?
それとも、背後に誰かおるのか・・・?
信長の脳裏にはいくつかの疑問がよぎった。しかし、この期に及んで、そのようなことをいくら考えてもせんのないこと・・・。
「お館様!! お急ぎください!!」
「・・・日向のやることよ。落ち度はない」
「しかし!!」
声や鉄砲の音がだんだん近くなる。火も近く迫ってきている。
「お蘭!! 弓を持てぃ!!」
「お館様!!」
「逃げよなどと、戯けたことを二度申すな!! この信長、敵に背中は見せぬわ!! 弓っ!!」
信長が欄干に足をかけた。
「日向めに、わしのこの首、くれてやるものかっ!!」
蘭丸が、ハッと衝かれた顔になる。
「ただ今っ!!」
蘭丸が弓を取りに戻る。その背中に信長の大声が追ってきた。
「女どもを落ちさせよ!! 奴の狙いはわしの首ひとつ。日向は女に手をかける男ではない!!」
蘭丸は、信長の潔い覚悟を目の当たりして、尚、侍女たちを思いやる気持ちを失わない。これほどの主君に仕えることの出来た自分に感動していた。
・・・今宵、この主君のために死ねる!!
蘭丸は弓を信長に手渡し、自分は欄干から下へ降り、刀を構えた。
敵が雪崩れ込んでくる。信長は弓を引き、蘭丸は、剣で応戦した。
そこへ、白装束に襷をかけた峰が廊下を歩いてくるのが見えた。
「峰!! 女は目障りじゃ。うぬもさっさと落ちよ!! 」
「お指図通り、侍女たちは裏門から落ちさせました。されど、私は残ります」
信長は休むことなく弓を引きながら、
「戯けたことを・・・!! この信長が、女の手を借りずば三途の川も渡れまいと言いたいのか!!」
「奥方様が私に託されたご遺言でございます!!」
峰は、身軽な体を翻して廊下から下へ舞い降りた。
すでに、庭には敵味方の屍が折り重なって倒れている。
さすがに、峰は一瞬ひるんだ。
しかし、一度は信長を殺そうとまで思い詰めた肝の据わった女である。濃姫に救われたこの命、濃姫の愛する信長のために差し出すことに、一片のためらいもない。
殺さねば、殺される。ならば、敵を殺してお館様をお守りする!!
塀が壊され敵がなだれ込んできたのを見て、峰は我に返った。
小柄な体で、手をいっぱいに広げて敵を防ごうとする。
白装束の女に、敵が一瞬たじろいだ。
「・・・女?」
「ここから一歩も通すまい!!」
「ええい、どけ!! 女に用はない!!」
敵方の一人が、峰を押しのけた。峰はとっさに庭に転がっている屍の刀を手に取った。しかし、刀の正式な構え方も、人の斬り方も知るはずもない。峰は、刀を竹槍のように構えて敵を後ろから突き刺した。刃が人の肉に食い込む鈍い音がする。前を行く敵二人が、まるで串刺しのように折り重なって倒れた。
「くっ、・・・この・・・女!!」
一人が刀を抜いて峰に一太刀浴びせた。白い小袖が朱に染まる・・・。
信長が放った矢が敵方をどんどんと倒していく。
蘭丸は、太刀で、ばさばさと相手をなぎ倒していく。
「その首、頂戴致す!!」
敵の一人がひらりと欄干へと飛んだ。
槍で信長の腕を突いた。信長の体が崩れ落ち、廊下に片膝付く。
「お館様!!」
蘭丸は、すぐさま欄干へよじ登ろうとする敵を後ろから斬った。男がもんどりうって庭へ転がり落ちてくる。
「お蘭!!」
「お館様!!」
腕に槍傷を受けた信長は、最後の一瞥を蘭丸にくれた。慈愛に満ちた、最期の微笑みだった。
信長は、素早く身を翻し館の奥へと入っていく。
その後ろ姿を見送っている時間は、蘭丸にはなかった。信長を追って館へ入っていこうとする敵を欄干から叩き落し、突き殺した。
「館に一歩も近づかせるものかっ!!」
蘭丸は鬼の形相で敵陣に斬りかかっていった・・・。
白装束が朱に染まり、庭にぐったりと倒れている峰は、幻を見た。
「お、奥方様・・・?!」
峰の前に、濃が立っていた。倒れている峰の手をそっと握り、微笑んだ。
峰は懐かしそうに、慕わしそうに、濃姫を見た。
「奥方様・・・」
館の一番奥の部屋。
信長の心は、不思議と静かだった。
外は、血で血を洗う地獄絵図であるというのに、この一室だけは、静まり返っていた。
乱世という、地獄・・・。
信長は、その地獄を必死に生きてきた。
自分が手をかけて殺した人間はどれほどいるのか、命令を下して家臣に殺させた人間はどれほどいるのか、数え切れるものではない・・・。
乱世を長引かせるためではない、乱世を終わらせるために、必死に駆け抜けてきた。
しかし、それも終わる・・・。
信長は、部屋に火を放った。
信長が、刀に手をかけたそのとき、目の端で、炎と見紛う緋色の小袖とゆらりと揺れる女の長い髪を見た。
「誰ぞっ?!」
ハッと、刀を構えてその方を振り返る。
信長は息を呑んだ。
「・・・お濃・・・?!」
火が立ち上り始める部屋の隅に、濃姫が立っていた。
眠るように息を引き取ったあの頃のまま、変わらず若く美しい濃姫の姿がそこにあった。
「やっと気付いてくださったのですね、殿」
「・・・お濃・・・いや、幻・・・?」
信長は幾度も目を瞬いた。
「いいえ、幻などではございませぬ」
「幻では・・・ない?」
光秀の謀反にすら、是非に及ばすと、即座に命を絶つ覚悟をするほど冷静沈着な信長が、これには驚いた。頭の切れる人間は、現実目の前の出来事に即座に対処する頭脳を持っているが、死者が現れるなどと荒唐無稽な絵空事には、対処出来ないようである。
立ちすくんだまま動けない信長に、濃姫はゆっくり近づくと艶やかに微笑んだ。
「殿はお忘れになったのですか? 濃はいつも、殿と共に居りますると申しましたのに」
「いつも・・・わしの側に・・・?」
「殿は、私の鼓の音を聞いてくださっていた・・・」
信長は目を見開いた。
「ずっと・・・? あれからずっと側に居たというのか?!」
「・・・わたくしは、女に生まれてきたことで殿と出逢うことができました。しかし、その反面とても歯痒い思いをしました。女の身では、戦の場にいる殿をお助けすることも出来ない・・・。しかし実体をなくした今なら、殿と共に戦の場に赴き、殿をお守りできると・・・」
信長のあまたの戦の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
奇跡のように、命を救われたことが幾度となくあった。そのとき、いつも濃姫のことを思った。肩に、背中に、濃姫が乗せる温かい手の感触を感じることがあった・・・。
信長は、すべてを悟った。
「・・・そなたが今、幻でなく見えるということは、わしの命はここで尽きるということじゃ」
濃姫がゆっくりと頷いた。
信長は、自嘲気味に言った。
「・・・夢幻であったな、この世はすべて」
信長が好んで舞った敦盛が、すべてを物語っていた。
人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり・・・
「いいえ、殿」
濃姫は、かつての射るような瞳で信長を見た。
「殿が今まで、築き上げたこの時代は、夢幻などではございません。すべて・・・時の流れでございましょう・・・。時は留まることを知りません。刻々と流れて行く・・・。殿は、尾張のうつけは、この乱世を沈め、天下統一の道をおつくりになった・・・。それは殿にしか成しえなかったことにございます」
乱世の時代に世に送り出されたひとりの素晴らしき天才。
天才というものは、天才であるがゆえに、凡人とは分かり合えないことが多すぎる。
乱世は鎮めた。信長の天から下された使命は果たされたのである。
「のちの世は、次の誰かが、殿の作った道を広げ、美しく形作っていってくれるでしょう・・・」
濃姫は、信長の胸にそっと身を傾けた。
信長は、濃姫をしっかりと腕に抱いた。
「この世の最期に、幻ではないそなたに逢えるとは・・・。わしは満足じゃ。ここで果てることに、一片の悔いもない」
「いいえ、殿」
濃姫は、少女のような悪戯っぽい眼差しで信長を見上げた。
「殿と私はいつでも共にあるのです」
共にある・・・とは?
信長は、濃姫の言葉の意味を量りかねた。
「お濃・・・?」
「これからはずっと、一緒に眠りましょう・・・」
濃姫は、着ていた小袖でそっと信長と自分を包むように覆った。
緋色の小袖は迫りくる炎の色にとけた・・・。
次の瞬間、襖を切り裂いて、敵がなだれ込んでくる。
風が入り込み、炎がさらに勢いを増して、敵は一瞬ひるんだが、声を荒げて叫んだ。
「ここが最後の部屋じゃ!! 必ず、ここに信長の屍がある!! 探せ!! 探して首級取るのじゃ!!」
甲冑を着た何人もの敵陣が、炎の中に消えていったが、信長と濃姫は、すでにそこにはなかった・・・。
庭に、息絶えた峰が濃姫の懐剣を握りしめたまま微笑むような顔で死んでいた。
周りの屍とは対照的に、安らかな死に顔だった。
蘭丸も、体のあらゆるところに傷を負い、体中の血を流しつくしてしまったかのような無残な屍となって転がっていた。しかし、その顔は、峰と同じく安らかであった・・・。
尾張。とある農村。
見事に美しく咲き誇る藤の大木の他は、のどかな田畑が広がっていた。
子供たちが、藤の木の近くに集まっている。
そこへ、何人かの子供に引っ張ってこられた近所の古寺の和尚が歩いてくる。
「和尚さま、和尚さま、人が倒れてるよ」
子供のひとりが藤の木を指して言った。
藤の木を抱えるようにして、白い寝巻き姿の武士が倒れている。
「行き倒れかのぅ・・・」
和尚は、木の下に屈んで武士を見た。
それは紛れもなく、織田信長そのひとである。
しかし、信長の顔から眉間の皺は消え、体からすべての毒が洗い流されたような清々しい顔つきであったため、例え生前この和尚が信長の御前に召されたことがあったとしても、わからなかったであろう。当然、村の子供たちが、信長の顔を知るはずもない。
子供たちと和尚が藤の木の側にいるのを見て、畑仕事をしていた農民も、近づいてきた。
「和尚さま、何かあったんだか?」
「行き倒れのようじゃ。誰ぞ、名のあるお方のようじゃが、身分を示すものを何ひとつお持ちでないのでな。寺で供養して・・・」
そう言った和尚の目の前に、ひらひらと藤の花が舞い降りてきた。
「おおそうじゃ、この藤の木の下に埋めて差し上げよう。さすれば、今の季節には毎年花が咲いて、御仁を弔ってくれるからの」
和尚はそういって、信長のために念仏を唱え始めた。
そう。この藤の木は、濃姫の生前、信長が濃姫のために枝を手折って贈り物をした思い出の藤である。濃姫が死んだとき、埋めてくれと願ったのもこの木の下であった。信長はその遺言を守り、この藤の木の下に濃姫は眠っている。信長は、濃姫をここへ葬り、この農村のすべての人間におふれを出した。「何人たりとも、この木を切り倒してはならぬ」と・・・。
農民は、その掟を守り、藤の木は切り倒されることなくずっと農村を見守ってきた。
毎年美しく咲き誇る藤の大木は、この小さな農村の守り神でもあった。
農民は、畑仕事をしている仲間に声を掛け、子供たちも一緒になって、藤の木の下に穴を掘った。
信長を埋葬し終えるのを見届けた和尚は、もう一度、藤の木の下で手を合わせた。
「それにしても、何とも清々しいお顔をなさっていたものよ。まるで、この世の毒をすべて洗い流したかのような、神々しいお姿じゃ・・・」
信長は、乱世という地獄を、天下統一という信念に基づきひた走ってきた。
この世に奇跡という言葉があるなら、魂と魂が惹かれあい、時空を超えることも無きにしも非ず。
無垢で熱い魂が、惹かれあい、絡み合って、京から尾張へ飛んだ・・・。
己を神と言った信長は、死の瞬間、望んでいた神となったのだ。
この世の毒がすべて洗い流され、心から想ってやまない魂の半身と共に、この世とはかけ離れた世界でふたり、いつまでも安らかに眠っているのである・・・。
夢幻~ゆめまぼろし~ Ⅵ 本能寺の変 完
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