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小説「夢幻~ゆめまぼろし~」Ⅲ [小説「夢幻」]

 「信長の恋、すれ違う想い」

 生駒屋敷。
 お類が、仏間で位牌を前にして座っている。
 母親が、仏間に入ってきた。
「お類。お客人にお茶を点ててくれまいか」
「・・・喪服のわたくしが、お茶など点てられませぬ」
 母親はため息をついた。
「いつまでそうしておいでなのです。いくら愛していたとて、亡くなった方は帰らないのですよ」
 まだ年若い娘が、日に日にやつれてゆくのが母には哀れでならなかった。
「・・・」
 しかし、お類の思いは他にあった。今でも弥平次を愛しているから、ここでこうしているのではない。お類は、嫁いですぐに夫に死なれた。愛しているのかどうかもわからぬくらいに早く。実家に戻って日が経つに連れて、流す涙が、夫を想って泣いているのか、自分の不幸を嘆いているのかわからなくなってくる。ただ涙の理由が欲しいがために、ここに座っているのかもしれない・・・。お類は、それを認めてしまうのが怖かったのである。
「吉法師様が、茶室で待っておられます。そなた、早う行って、茶を点てておくれ」
「吉法師様・・・?」
「そなたも幼い頃、逢ったことがあるであろう?」
 お類は、すぐに思い出した。眼光鋭く、声の大きな少年・・・。まだ少女だったお類は、怖くて怖くて、柱の陰に隠れてそっと見ていた。
「嫌でございます。母上が、お点てになってくださいまし」
 何やら胸が騒いだ。今、あの少年に逢うのが怖かった。それが何故ゆえか、お類にもわからない。
「母は、これから出掛けるところがあるのです。お茶は、そなたが。吉法師様にもそうお伝えしておりますゆえ」
 母が仏間を出て行く。そのすぐ後に、侍女がお類の小袖を持って入ってきた。

 「失礼いたします・・・」
 茶室の扉を開けた瞬間、お類は息を呑んだ。あの目の鋭い少年が、今では立派な青年になって座っていたのだ。少年の頃の信長は、どうであっただろうか? 思い浮かべようとした。が、無理であった。昔の面影よりも、目の前の信長に心奪われ胸が熱くなるのを感じたからである。
 信長も、お類を見た。お類が顔を上げた瞬間、似た顔を思い浮かべた。しかしそれが誰であるかわからない。そして、同時に体全体を心地よく包む、生暖かい何かに包まれた気がしたのである。
 お類は、どうやって自分がお茶を点てたのか、まったく覚えていない。信長の自分を見つめる視線が痛くて、胸が苦しくて、早くこの場から逃れたい。ただその一心だった。
 信長とお類、この二人の出逢いが、濃姫と信長の間の溝を更に広げることになるのである。

 清州城。奥の間。濃姫の居間である。
 褥に横たわっている濃姫が目を覚ます。
「お目覚めでございますか? 姫様」
 側に控えていた稲葉が、濃姫に声を掛けた。稲葉は今でも昔のように濃姫を姫様と呼ぶ。
 稲葉は、濃姫を幼少の頃から見ている。母の小見の方よりも一緒にいる時間は長いかもしれない。幾日も熱が続き体力の失われていた濃姫が心配で、ずっと付きっきりで看病していた。昨夜は熱も下がり、うなされもせずぐっすりと眠っているのを安堵して見ていたのだ。
「夢を見ました・・・」
「まあ、夢を」
 稲葉が微笑みながら、濃姫をそっと抱き起こす。脇息を脇に添えて、濃姫がもたれやすいように体を支える。
「どのような夢をご覧になったのでございます?」
 他の侍女に持ってこさせた水を、濃姫に差し出しながら聞く。
「殿が・・・他の女子に恋をする夢です」
「!!」
 稲葉が差し出す水を受け取り、濃姫は一息に飲み干した。
「正夢でござりましょう、きっと・・・」
 静かだが、確信のこもった声で、濃姫は呟いた・・・。

 信長は、次の日も生駒屋敷へ出向いた。母親が茶を点てに出てくると「お類はおるか」と声をかけた。お類が茶室に行くのを断っても、信長はお類が来るまで茶室でいつまでも待った。その情熱に押され、お類は茶室に行かざるをえなかった。
 茶を点てる間、信長は、じっとお類を見ている。お類の胸は昨日よりも苦しくなった。
 そして三日目・・・。
 点て終わった茶を、震える手で信長に差し出した瞬間、信長の手が、茶碗ではなくお類の手を引き寄せた。
「あっ・・・」
 か細く軽いお類の体は、いとも簡単に信長の腕の中に落ちた。
 二人の目が、至近距離で逢った。すぐさま、お類は目を逸らす。
「吉法師様・・・。お戯れが過ぎまする・・・」
 お類は信長の腕の中で抗った。
 信長は、お類を抱いた腕に力を込める。
「戯れではない」
 信長の力強い声に、お類が信長を見た。二人の視線が再び出逢う。
 この目・・・。最初に茶室に入った瞬間、この目に射抜かれた。
 夫の死を嘆くより、未亡人となった己の不幸を嘆いている自分を、情の薄い女だと責めていた。しかし違った。自分は、弥平次に恋をしていなかった。それが、はっきりとわかってしまったのだ。
 この恋に落ちたがために・・・。
 信長が、お類の唇を奪う。お類はもう、抗うことはしなかった。

 信長は、たびたび生駒屋敷を訪れるようになった。生駒屋敷の人間にも、信長の供周りの目にも、信長とお類は、似合いの夫婦に見えた。
 そのうち、お類は吉乃と呼ばれるようになる。「吉法師乃女」で吉乃(きつの)。信長の想い人という意味を込めた名前である。

 数ヶ月経ったある日。清州城で事件が起こった。
 信長が、供周りを連れて、生駒屋敷へ出向こうと庭に面した廊下を歩いていたときである。
 ガサッと茂みで音がした。
「曲者っ!!」
 敏感に察した小姓が、信長を庇うように前に出て、刀を抜いた。
 小猿のように身を丸めた女が、信長に短剣を向けていたが、小姓によって防がれてしまった。刀の峰に突かれて庭に女が転がる。小姓が、刀を振り下ろすと同時に、信長が大声で叫んだ。
「待ていっ!!」
 振り下ろした刀が女の背を斬る寸前で止まる。
「・・・女、か」
 信長が、前に出て女を見下ろした。
 女は身のこなしが軽いものの、忍びではない。誰かに雇われて信長を狙った刺客でもなさそうだ。信長の目には、ただの町娘にしか見えなかった。
「この信長もなめられたものよの・・・。町娘ごときに命を狙われるとは」
 庭に転がった女が、キッと信長を振り返って叫んだ。
「お前が龍吉さんを殺したんだ!!」
「何?」
「お前が、家来にしてやるなんて言わなけりゃ、龍吉さんは死ななかった!! お前が、お前がっ」
 女は泣きながら、短剣をかざし、信長に向かって庭から廊下へ飛んで上がった。
 信長は、小姓の刀をすばやく取り上げて、女の短剣を刀で弾き飛ばした。短剣が庭の遥か彼方へ転がる。
 女は、転がっていく短剣を目で追い、打つ手なしと悟ったのか、がっくりと肩をうな垂れた。
 信長は、刀の先を女のおとがいに掛け、上を向かせた。まだ子供のような若い女である。目だけが異常に鋭く殺気に光っている。
「この信長に刃を向けるとは、なかなか見上げた女よ。だがな、我が命狙うたやつを見逃すほど、優しい男ではないぞ。その首刎ねて、塩漬けにしてやろう・・・」
 信長は、女の首にぴたりと刀を当てた・・・。
 そのときだった。
「何をしておられるのです、殿!」
 濃姫が、奥の間から続く廊下を数人の侍女を連れて歩いてきた。
 信長が、女に顎をしゃくってみせる。
「その昔、俺に刃を向けた、もうひとりの女よ」
 女が、濃姫を見た。濃姫が女の側に来る。
「このような子供に刃物を向けて・・・何をなさるおつもりなのです」
 信長は、淡々とした口調で言い放った。
「この女は俺の命を狙ったのじゃ。今からこの首刎ねてやろうとしていたところよ。ちょうどよい、お濃も見ているがよい」
 侍女はみなさっと青ざめた。信長なら、女の前でも平気でやってのける。みなそれを知っていた。
 濃姫は、女の前にまわり込んだ。
「それなら殿、わたくしも共に斬るがよいでしょう」
「何?」
「わたくしも殿の命を狙う女のひとりです。この懐剣で、いつあなた様のお命を狙うやもしれません」
「お濃が、俺を?」
「嫉妬に狂った女が、男を殺める話は、遠い昔からありますゆえに」
 信長のこめかみがピクリと動いた。が、次の瞬間、大声で笑い出した。
「おもしろい!! おもしろいぞ、お濃!!」
 信長が、刀をしゃくった。
「気は強うても所詮はお濃も女、懐剣の扱いは知っておっても刀は知らぬと見える・・・。よう見ぃ。これは刀の峰じゃ。刀は刃の方でないと、人は切れぬわ」
 濃姫が、刀を見る。刀の刃は外側を向いていた。信長は最初から、女を殺す気などなかったのだ。
 信長が刀を小姓に返す。
「茶番にしてはおもしろかったぞ、お濃。褒美に、その女はそなたにやろう。煮るなり焼くなり好きにせい」
 信長は、小姓を連れて廊下を歩いていった。何事もなかったように静寂が戻る。
 濃姫が立ち上がる。その足元がふらりと揺れた。
「姫様っ!!」
 稲葉が、濃姫に駆け寄り抱きとめる。稲葉が、他の侍女に言いつけた。
「薬師を、薬師を早うお呼びなされ!」
「は、はいっ!!」と、侍女が弾かれたようにすっ飛んでいく。
 その様を、女は呆然と見ていた。

 褥に濃姫が横たわっている。
 襖が開いて、稲葉が女を連れて入ってきた。
「お座り」
 濃姫が、優しく女に声をかけた。女が、言われたとおり濃姫の近くに座る。
「名は何と申すのじゃ?」
 女は答えない。口をへの字に結んだまま表情を変えない。
 稲葉が口を挟んだ。「御前様の前じゃ。答えよ」
「よい、稲葉。・・・そなた、身寄りは?」
 女は答えない。
「・・・殿がお命狙うたからには、死ぬ覚悟で城に忍び込んだのであろう? そなたが死んで、悲しむお人はないのか?」
 女の肩が震えた。結んだ口から、嗚咽が漏れる。
 両親を早くに亡くし、たったひとりの身内である夫、龍吉は死んだ。信長様の家来にしてもらうんだと、小さな合戦が起こるたびに竹槍を担いで出て行った夫。その夫は、もう帰らない・・・。
 濃姫が、女の頭をそっと撫でる。
「のう、娘・・・。ここで、わらわの侍女にならぬか?」
 濃姫は、宙をぼんやりと見つめて言った。
「帰る家がないのは、わらわも同じじゃ・・・」
 稲葉が、ハッと衝かれたような表情になる。「姫様・・・」
 父、道三は、息子義龍に討たれて死んだ。母、小見の方は濃姫が尾張に嫁いだ二年後に病気で亡くなっている。濃姫にはもう、この清州城に留まる以外、帰る家はない。
 稲葉が、涙を小袖の袂で拭った。
「ここで一生、わらわと共に、生きるか?」
 女が濃姫を見た。美しく気高い瞳の中に、小さな悲しみが宿っていた。
 濃姫は、女の悲しみを理解していた。夫に先立たれた悲しみ。それは信長の心が自分から離れてしまった悲しみに似ていた。俺の半身だと、折れるほど力強く抱きしめてくれた信長・・・。あの日の信長はもういない。ひとときの夢であった。幻であった・・・。
 女が濃姫に深くうなずいた。
「はい・・・」
 女は「峰」と名をもらった。命拾いをした刀の峰からである。

 夜半。
 吉乃の褥から、信長が起き上がった。着物を羽織る。
「・・・お帰りになられるのですか?」
「起こしたか、吉乃」
 吉乃が、すばやく信長の着替えを手伝う。
「こうやってお訪ねくださっても、いつも夜更けにはお帰りになられるのですね、吉法師さまは・・・」
 褥の上に座りなおして、吉乃が、寂しげな声で呟いた。
 刀を腰に差し、信長が吉乃の横に胡坐をかく。
「寂しいか」
 そっと吉乃の首筋に手をあて、聞いた。
 吉乃は潤んだ目で信長を見つめ、正直に答える。「はい・・・」
「俺はな、そなたの側にいると、とても和むのじゃ。そうよの・・・熱うもない冷とうもない、ちょうど良い湯加減の湯船に浸かっておるようにな・・・。それゆえ、吉乃の側に長う居てはおられぬ。毒気をすべて抜かれてしまうでな。今は乱世じゃ。食うか食われるかの恐ろしい世じゃ。俺にはまだまだすることがある」
「することが・・・?」
「そうよ。今はまだ時期ではない。その時期を伺うておるのじゃ」
 吉乃が、戸惑うような顔で信長を見つめる。
「そなたは何も思い悩むことはない」
 そっと、吉乃を抱き寄せる。首筋に接吻して、立ち上がった。「また来る」

 馬を駆りながら、信長は思っていた。
 何故ゆえ、俺はどんなに遅くなっても清州へ戻るのか・・・?
 吉乃を何者にも代えがたくいとおしいと思いながら、心のどこかでいつも濃姫を想っていた。
 信長の命を狙った子供のような女を、我が身を呈して守りきる、情の深い優しい女。信長と対等に競えるだけの才気を持ち、さすがは蝮の娘よと思わせる、気丈で芯の強い女。
 吉乃は真逆に、どこまでも優しく甘やかしてくれる。吉乃の側にいると、この世が乱世であることすら忘れる。はかなげでか弱い風情は痛々しいまでにも美しい、守ってやらねばならぬ女。
 男の本能が、利己主義さが、相反する二人の女を求めていた。濃姫と吉乃。どちらもいとおしい。どちらも無くしたくない・・・。
 信長は、一心に清州を目指して馬を駆り立てた。濃姫の眠る、清州城へ。例え枕を並べて眠らなくとも、同じ城の中で眠りたい。信長は、いつもそう思っていた。
 次に濃姫を強く抱きしめるとき、心からの笑顔で笑い合えるとき、それはあるものを手に入れたときだ・・・!! 
「待っておれ、お濃!!」
 信長は、馬の腹を叩き更に加速して城へと急いだ。
 このとき信長は、濃姫の体に巣食う病が、静かに、そして確実に進行し、濃姫を死に追いやることになるとは、まだ知る由もなかったのである・・・。

               夢幻 ~ゆめまぼろし~ 「信長の恋、すれ違う想い」 完
                                            Ⅳ へつづく・・・


2006-07-22 00:54  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 

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m_kikuchi

素晴らしいできですね。つい引き込まれてしまいましたよ!
by m_kikuchi (2006-08-01 10:14) 

猫たぬき

こんにちはあすなろうさん(^^) nice&コメントありがとうございます!!
小説にコメントを入れてくれる方がいらっしゃらなかったので、おもしろくないのかな~とちょっと自信がなかったのですが。嬉しいです!!
史実とは違う信長像を書きたかったので、世の中にある話とは違うところもありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです(^^)がんばりますっ!!
by 猫たぬき (2006-08-01 16:30) 

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