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小説「夢幻~ゆめまぼろし~」Ⅰ [小説「夢幻」]

 「運命の出逢い」

 白い雪が、舞っている。 
 まだ雪深き2月、那古野城、屋敷内の一室に豪華な衣装に身を包んだ少女が座っていた。細い体に端正な顔立ち。勝気そうな瞳だけが輝いている。名を、帰蝶という。
 帰蝶が小さくあくびをした。側についていた老侍女の稲葉がこれを諌める。
「これ、姫様・・・」
 帰蝶は、稲葉の諌めを右から左に聞き流し、今度は大きくあくびをする。
「一体、いつまで待たせるのです。何故ゆえ、わたくしの夫は現れないのです」
「それはわかりませぬ。ただ平手殿が、こちらで待たれるよう、と・・・」
 帰蝶は大きくため息をついて、脇息にもたれ苛立ちを隠しきれぬ様子で言い放った。
「夫の顔も知らぬ正室など、あるものですか」

 先程、大広間で一族との対面の儀があった。信長の父、織田信秀とその妻、土田御前は、人質となる美濃の姫を、建前上ではあるが盛大に迎え入れた。家臣たちにも、帰蝶が、織田家嫡男信長の正室になったことを披露した。
 しかし、その儀に、肝心な信長の姿はなかったのである。

「待たせるにも、限度があろう」
 苛立った表情で、帰蝶が立ち上がった。
「姫様」
 稲葉も急いで立ち上がる。
「雪を見るだけです」
 と言い、
「平手殿に、もう一度聞いてきておくれ。信長殿はいつになったら、こちらにお出でになられるのか」
「は、はい」
 稲葉が急いで部屋を出て行く。
 帰蝶は、庭の見える廊下へと歩く。欄干近くまで進み出た。先程まで舞っていた雪はやんでいる。庭は一面の雪。花をつけていない藤の木が雪化粧をして立っている。
 春になれば、さぞかし美しい藤を愛でることが出来るであろうの・・・。
 桜の季節を過ぎ、春に遅れて咲く藤の花を、帰蝶はことのほか好きであった。
 しかし、その想像は途中で中断された。そんな平和的な願いを持ってよいものかと自分に問うたからだ。
 今、この瞬間、自分は、美濃から来た人質なのだと強く感じた。ただの人質・・・。
 この一室で、尾張と美濃との争いが起きぬよう、そのためだけに存在している飾り物。それゆえ夫である信長にすら逢わせてもらえないのだ、と。
 帰蝶は、懐に収めた懐剣にそっと触れた。美濃を出るときに父、道三に遣わされたものである。

「よいか、帰蝶。これからお前が嫁いでゆく織田家の嫡男、信長という男は、尾張のうつけと聞く。それゆえ、お前を嫁がせる決心をしたのだ。まこと、うつけであるならば、これでヤツを討て。さすれば、この道三が尾張を手にしやすくなるからな」
 帰蝶は、父を愛していた。愛していたからこそ、戦略のためだけに、うつけとわかっている男に嫁がせる父の気持ちを図りかねた。そして、帰蝶は懐剣を手に、こう切り返した。
「わかりました、父上。なれど、わたくしがもし、そのうつけと呼ばれる信長殿を心底お慕いしてしまったとしたら・・・。わたくしは信長殿をけしかけて、美濃を討てと言うやもしれません。そのときは、この懐剣は信長殿ではなく、父上の胸に突き立てられることになるでしょう。それでも父上は、わたくしにこの懐剣をお授けなさるのでありましょうや?」
 十五の少女にこれほど切り返しの才気があるものなのか、と道三は目を見張ったが、そこは蝮とあだ名される道三のこと、屋敷中に響く大声で笑った。
「それでこそ、わが娘。よかろう、お前が心底惚れるような男ならば、うつけではない。そのような男になら美濃を取られても本望よ」
 帰蝶は、懐剣を手にして、尚も道三に言った。
「これは、父上とわたくしの、命を賭けた賭けです」

 道三との最後の親子の会話が、そのような殺伐としたものであったことを帰蝶は後悔していた。
 帰蝶は、父から優しい言葉を聞きたかった。武家の女は、家と家の安全を計るため、時には人質として嫁ぐものと幼い頃から教えられてきたけれど、まさかわが身がこのような仕打ちにあうとは思ってもみなかった。
 おそらくこの懐剣を、使うことはあるまい。刺せと命令された、信長に逢うこともなければ、お慕いすることも叶わぬことなのだから・・・。
 
 そのとき、かすかな物音がした。人の気配がする。帰蝶は敏感に感じ取った。懐剣を持つ手に力を込める。
 茂みからガサっと音がした。
「何者っ?!」
 帰蝶が、懐剣を抜き、音のした方を睨んだ。
 茂みから出てきたのは、まるで山賊であった。真っ黒な顔、恐ろしく薄汚れた着物、天を突くように捻り上げ縛った髪。まさか、城内にこのような曲者が簡単に出入りできるわけがない。しかし、言葉が喉の奥で凍りつき、帰蝶は声が出ない。
 山賊が、甲高い声で聞いた。
「お前が、美濃から来た女か?」
 懐剣を握り締めたまま、帰蝶がゴクリとつばを飲む。
「・・・何?」
「聞こえんのか。お前が美濃の女かと聞いておるのじゃ」
 声は甲高いが、言葉には気品があった。一昼夜にして身につくような品ではない。生まれながらに持っているものが感じられた。
「まさか・・・」
 もう一度、帰蝶はゴクリとつばを飲み込んだ。
「信長、殿・・・?」
 間違いであって欲しいと願った。敵の元に嫁ぐとは聞いていたが、織田家嫡男と聞いてある。山賊の元に嫁ぐなど、夢にも思っていなかった。
 山賊は、唇の片方だけを引き上げ、皮肉っぽく笑った。
「そうよ。俺が、お前の婿。織田信長よ」
「?!」
 帰蝶は、体中の力が抜けるような気がして、欄干に手をついた。
「お前の名は何と申す」
「・・・帰蝶」
「きちょう? 変わった名じゃのう。面倒じゃ、美濃の女なのだから、濃でよい。これからは、お濃と呼ぶぞ。よいな」
「・・・はい」
 帰蝶には、驚きが大きすぎて反論する気力さえ沸かなかった。力が抜け、手にしていた懐剣を欄干から落としてしまった。
「あっ・・・」
 懐剣が庭の雪の上に落ちる。信長が、欄干の下に来て懐剣を拾った。手の中で二、三度、器用にクルクルと回す。
「このようなもの、夫となる男に向けるものではない」
 帰蝶の顔に、本来の勝気さが戻ってくる。
「わたくしは美濃の人間でございます。敵国に嫁ぐ以上、自分の身を守るものを持つのは当然のこと。夫といえど、わが身に危険を感じたならば、ためらわずに刺しまする」
 信長の手が止まった。
「この俺を? お前のその手で刺すと言うのか?」
「・・・」
 信長が、懐剣を帰蝶の方へと差し出す。
「では、刺せ」
 穏やかな口調だった。帰蝶が、目を見開く。
「俺は美濃がほしい。お前の親父はこの尾張が欲しい。どこまで行っても敵同士だ。ここでどちらかが死ねば、国は動く」
 二人の間に、瞬時、緊張の糸が張りつめられる。
 帰蝶は息を飲んだ。そうなのだ。二人は、生まれながらにして敵同士の親を持つ男と女なのだ。いくら表面上を取り繕い姻戚関係を結ぼうとも、隙を見せれば戦になることは避けられまい。そんな想いを抱えていては、いくら同じ部屋で寝起きをし、夫婦の契りを交わそうとも、決してお互いの心から不信感は消えないだろう。
 しかし、信長は今、自分の命を賭けて、潔白を示そうとしているのだ。人質として扱うのではない。決して帰蝶に危害を加えることはしない、それが信じられないのなら、今ここで殺せ、と・・・。
 帰蝶が、信長の手から懐剣を受け取る。そして、鞘に収めた。
「どうした、お濃? 怖気づいたか」
「・・・今はまだ、殺しますまい」
「なぜだ?」
 帰蝶は、信長の射るような目を、同じように射るような瞳で見返して言った。
「わたくしは、まだ殿のことを何も存じません。わたくしは、忍びでも間諜でもない。ただ、信長殿、あなたの元へ嫁いできた女です。うつけ者と聞かされても、それは口さがない世間が申すこと。わたくしはわたくしの目で、そなたがうつけかどうか確かめるまで、殺しはいたしませぬ」
 信長は、目を見開き、次の瞬間、天を突くような大声で笑った。
「気に入った。気に入ったぞ、お濃!」
 帰蝶が、初めて信長の前で笑った。信長が、欄干に手をかける。
 二人の距離が縮まった。帰蝶は、もう、信長の風体など気にならなくなっていた。真っ黒な顔、茶筅曲げの髪、薄汚い着衣が、どんな豪華な衣装を纏った殿様よりも立派に見える。
 真っ黒な顔の中で、ひときわ輝いている瞳を信じたのだ。信長は、今、目の前の帰蝶を見ているが、その瞳はもっと違うものも見ている。
 未来。
 その未来は、お前と共にある。信長の目はそう言っていた。
 出逢って、たった数分で、二人の心は通い合っていた。まるで、前世から夫婦であったように。
「俺がもし、まこと、大うつけだとしたら、何とする?」
「この懐剣で刺し殺し、父に尾張を討たせます」
「もし、うつけでなかったら? お前は美濃を差し出すか?」
 帰蝶は、気位高くツンとそっぽを向いた。
「うつけでないのならば、妻から美濃を差し出させる必要などないはず。堂々と美濃を攻めて落とすがよいでしょう」
「お前の父を討っても構わぬと申すか」
「父は、わたくしが心底惚れるようなお人であれば、うつけにあらず。美濃を取られてもやむなしと申しておりました」
 信長が、大声で笑う。
 そこへ、稲葉が部屋へ入ってくる。
「姫様」
 欄干越しに立っている信長を見て、ギョッとする。
「く、曲者っ!!」
 稲葉が、帰蝶を庇うように前で出る。
「ひ、姫様。お逃げくださいませ。寄るな曲者、このお方をどなたと心得るっ!!」
「稲葉、このお方は」
 信長は、軽々と欄干から飛びのき、帰蝶に向かって、例の唇の端をを引き上げる皮肉な笑いを送ると、足早に茂みの向こうへ消えてしまった。
「誰か、誰か!!」
 助けを呼ぼうとする稲葉を、帰蝶が制した。
「信長殿じゃ」
「ひ、姫様、今、何と・・・?」
「我が夫、織田信長殿です」
 帰蝶は、信長が消えていった茂みを見送った。
「稲葉・・・。父との賭けはわたくしの勝ちです。殿は、うつけなどではない」
 稲葉は帰蝶の言葉など聞いてはいなかった。
「の、信長様・・・。あの、山賊が・・・」
 稲葉は、腰が抜けたようにヘナヘナとその場にしゃがみこんでしまった。

 城屋敷内の廊下を、信長が小姓を連れてズンズンと歩いていく。
 後ろから平手政秀の声が追いかけてくる。
「殿!! 殿、お待ちくだされ!!」
 信長はため息をついて、足をとめた。
「何じゃ、爺っ。うるさいぞっ!!」
「今日が何の日であるか、もしやお忘れでは」
「おう、美濃の女が来るのであろう?」
「それをわかっていながら」
 平手の言葉の途中で、信長が言葉を挟んだ。
「見つけたぞ」
「は?」
「俺だ。もうひとりの」
 訳がわからぬという顔で、平手が信長を見た。
「殿・・・?」
「あの女は、長いこと探していた、もうひとりの俺だ」
 信長は、帰蝶のいる部屋の方角を向いて、言った。

                      夢幻 ~ゆめまぼろし~ 「運命の出逢い」 完
                                            Ⅱ へ つづく・・・


2006-07-07 17:04  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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