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犯罪に「時効」は必要なのか? [ニュース関連に思うこと]

 朝からブルーになるテレビのトップニュース、「奈良 女児ひき逃げ事件、時効成立」。
 人をひき殺しておいて、そのまま放置して逃げ去る・・・卑怯な犯罪、ひき逃げ。
 遺族の無念さも何もかもひっくるめて、私は思う。本日のお題、「犯罪に、時効は必要なのか?」

 「犯罪」とは、罪を犯すということ。「罪」というものは、世の中にはさまざまなことがある。
 法にふれるもの、ふれないもの、表ざたになるもの、闇に葬られるもの。「罪を犯す」ことは同じでも、表ざたにならない限り「犯罪」として法の下で裁かれることはない。
 どうしてこの「ひき逃げ」が、「業務上過失致死罪」と同じ扱いで、時効が5年なのか? そもそも、犯罪に「時効」は必要なのだろうか?
 ひき逃げで5年、殺人で15年・・・。何だこの、「時効」ってやつは?
 人を殺しても、5年、15年、逃げ続ければ犯罪は「無かった」ことになるのか? 時間がすべてを「チャラ」にしてくれるのか?

 被害者は死んでいる。残された遺族の悲しみは尽きない。何年経とうと、何十年経とうと、「家族を殺された」という思いは消えない。一生消えない。遺族にとっては、例え犯人が捕まって、涙ながらに謝罪し刑に服したとて、許せるものではない。少なくとも私なら、絶対に許さない。
 なぜなら、自分の家族は「死」に、犯人は「生きて」いるからだ。

 少し話は逸れるが、先日テレビで「氷点」が放送された。私は昔原作を読んでいるが、内容をほとんど忘れかけていたのだけれど、ドラマを見て、母親役の飯島直子嬢が「私の娘は3つで死んだの。だから犯人の娘の陽子が、恋をしたり、女らしい幸せを掴むのは許せない」というような心情を演じていたとき、「解る」と感じた。
 娘を殺した犯人は罪を悔い自殺している。客観的に見れば、犯人の娘(本当は違うのだけど)である陽子に憎しみを抱き、「幸せを与えたくない」と思うのは、理不尽であることは明らかなのだ。
しかし、遺族としての心情的に理解出来るのである。

 「氷点」の小説のテーマは「罪」と「赦し」だったと思うけれど、人間は「神」ではない。すべてを
「赦す」ことなど、本当の意味では出来ないのではないだろうか。殺された遺族にとって、その犯罪は「過去」にはならない。犯人が捕まっても、死んでも、事件が「無かった」ことにはならないのだ。自分の愛する家族は、二度と手元に戻ってこないのだから。
 どれほど犯人が罪を悔いて刑に服しても、死刑にならない限り、いつかは自由になれる。いや、刑に服している間も、息をして、飯を食い、笑うことだってある。それすら許せない。それが遺族の心境だと思う。「氷点」の母親の心境だ。
 なのに、ひき逃げの場合、相手は罪を認めることもせず、刑にも服さず、のうのうと、一般市民の中に溶け込んで、普通の生活を送っているのだ。日本の法律にのっとれば、「5年逃げ切ればチャラになる」のだから。遺族にとって、これほど許し難いものはない。

 「遺族側」だけだと一方的なので、「犯人側」の心情を考えてみよう。
 計画的に人を殺す・・・というものでない以上、犯罪の加害者は「突発的」になることが多い。
 この事件のように「人を轢いてしまう」というもの、交通事故に「殺意」はない。しかしどうだろう? 轢いてそのまま逃げ去る・・・というものには、「殺意」が存在するのではないだろうか? 轢いた
人間は「相手がこのまま死んでしまっても構わない」と瞬間的に思っているのだ。
 もし、事故を起こしたあと、すぐ処置をすれば助かったかもしれない。それを、放置したまま逃げることに「殺意」はないのだろうか? 

 この「犯人」は、ひき逃げをしたあと、どんな心境で生活を送ったのだろうか?
 家に帰って何食わぬ顔をして、風呂に入り食事をして眠ったのだろうか? 
 次の日から、何事もなかったように普通の暮らしをしていたのだろうか?
 この5年間、一度も「罪を償おう」という思いはなかったのだろうか?
 この時点で、すでに「犯人」は「人間」というカテゴリーから外れているような気がする。
 犯人が男なのか女なのか、成人なのか未成年なのか、恋人がいるのか家族がいるのか、何もわからないけれど、どんな事情があろうと自分のしたことの罪を償わない者は「人間」とは呼べない。
 なぜなら、その人に家族があったなら、一度くらいは想像できたはずだから。
 「もし、自分の家族が、自分のしたように誰かにひき逃げされたら・・・」と。
 そのとき、おそらく何の感情も涌かなかったのではないか? 「自分」さえ無事であったら他はどうでもいいと思っていたかもしれない。だから「罪の意識」がなかったのではないか。
 「自分」だけ良ければそれでいい・・・他人のことなど知ったこっちゃねぇ。
 こんな人は「人間」ではない。「人と人の間」に生きられない人だから。人はひとりで生きていけるほど強いものではない。支えて支えられて「人間」なのである。

 人を殺して、罪を償わず、逃げ切って「時効」。
 私は未だ、この「刑法」に納得できない。
 突き詰めて言えば、人が人を裁くことも(事件に全く関係のない第三者が、という意味でも)納得できないのだが・・・それは致し方ない。
 しかし、本当の意味で「犯人」を赦せる人間は、「殺された被害者」なのだ。しかし死人が赦すことは絶対的に無理なので、「残された遺族」が代わりに赦す。それが本当の意味での「償い」ではないだろうか。(なので、私は世によく取りざたされる安楽死は殺人ではないと思っている。本人が死を本心から望んだのであれば、それは殺人ではない。・・・この話はまたいずれの機会にでも書きたいと思っています)

 昨今、車の運転が簡単になり、車メーカーの努力で便利な車が続々出てきたということもあり、誰でも運転出来る時代になっている。しかしその分、運転技術が下がってきているとも言える。
 もちろん、技術と言っても公道はサーキットではないのだから、ドライビングテクニックを披露する場ではない。私の言うのは「車は怖ろしい凶器になり得るという意識」だ。
 したたか酔ってるくせに「大丈夫、大丈夫、家まですぐだから」と運転して帰って事故を起こす。
 ゴルフの時間に間に合わないと急いでるから、接触事故を起こしてもそのまま逃げる。
 人を轢いても、そのまま逃げ去る・・・。

 「車を運転する限り、いつ自分が加害者の立場になるかわからない」という意識が足りなさ過ぎる。車は「走る凶器」にいつでもなり得るのだ。
 私は運転免許を持たない。だから「被害者」になることはあっても、「加害者」になることはない。
 自分がもし車の免許を取得し「加害者」になってしまった場合、殺意はなくても人を殺めてしまった場合、私はおそらく生きていけないと思う。
 「自分が人を殺めてしまった」という事実が、罪を償ったとしても、ずっと私を苦しめると思うから。
 この「ひき逃げ犯」は、そんな意識を一度も持たなかったのだろうか? それとも、罪を悔いて、どこかでひっそりと自殺しているのだろうか? 「時効」になってしまった今、犯人が名乗りでない限り、生きているのか死んでいるのか、それすらも、永久にわからないのだ。

 今年の世相を表す漢字は「命」。
 飲酒運転・危険運転の交通事故で失われた命、中高生の自殺によって失われた命、そしてこの世界のどこかで繰り広げられる戦争によって失われていく命・・・。
 この「命」というものの大切さが、希薄になってはいないだろうか?
 人の命は決して軽いものではない。
 生まれた瞬間から今まで、人はひとりで生きてきたわけではない。どれほどの人の手助けをもって、人は生きてこられたのか、この先生きていくのか。それを考えれば、自殺など出来ないし、人を殺せないのではないだろうか?
 人の死には、必ず多くの涙が流れる。悲しみ、絶望、苦しみ、痛み・・・。
 生きたくても生きられない命もある。
 今生きていることはまさに「奇跡」なのだ。
 「命」というものの「重さ」、それをわかっていたら、絶対に「ひき逃げ」などという卑劣な犯罪は生まれない。

 本当に犯罪に「時効」は必要なのだろうか?
 私には、未だに理解出来ない。


2006-12-13 23:52  nice!(1)  コメント(7)  トラックバック(0) 
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コメント 7

こんばんは、だい吉です^^
この事件、とうとう事項でしたね。
「時効」ですが、これは警察とかそれに携わる人間のための法律だと昔聞きました。要するに「どこかで線引きしないと、人と時間とお金を割けない」と言うのが理由だそうです。
そこには被害者に対する配慮的な的なものはないのが現実のようです。法律(この場合は刑法になるんですかね)は誰のためにあるんでしょうね。
実は過去に交通事故を起こしたことが何度かあります。まぁ、仕事で車を使うので事故を起こす、起こされる可能性は多いのですが、そのうちの一つに子供を轢いた事故を起こしたことがあります。
交差点でもない所の渋滞の列から飛び出してきて、止まり切れずはねてしまいました。しかも、その子供が知り合いの子供だったのでしばらく車を運転すると動悸がを起こすほどでした。幸いお子さんは軽症で済んだので今は立ち直ることが出来ましたが、もしも命を奪っていたらと思うと…
逃げたくなる気持ち自体は理解できなくもないですが、やっぱり逃げた人間は卑怯で卑劣ですよね。
運転をした人間はよっぽどバカでなければ、事故をやったことを大概覚えてます。ですので逃げたひき逃げ犯は必ずそのことを一生背負って生きていくことになります。必ず、報いは受けます。間違いなく。
by (2006-12-14 02:12) 

猫たぬき

こんばんはだい吉さん(^^) 私も聞いたことがあります。「時効は被害者や遺族のためのものではなく、警察のためである」みたいなことを。別にね、ずーっと捜査を続けろと言ってるわけではないんです。遺族からすれば、して欲しいことだと思いますが、毎日続々と事件は起こるわけで、確かに線引きしないといけない時期は来る。しかし「時効」は「犯罪を無かったことにする」わけですよね? 例え自首してきたって、罪にとえない。以前、拉致されたと思われ拉致認定まで受けていた女性が、実は日本で殺されて埋められていたという事件がありましたが、あれも犯人は逮捕されなかった。「時効成立後」だから。そんな法律があるから、殺人事件は後を絶たないのではないか、とも思います。「逃げた者勝ち」なんておかしいでしょ?
車に乗っている以上、いつ「加害者」になるかわかりませんよね。いくらこちらが気をつけていても、飛び出してくる子供をよけきれないことだってあるし、向こうから突っ込まれてきたらどうしようもないし。
「どうしようもなかった」「仕方がなかった」という交通事故は確かに存在すると思います。そして、それは被害者の家族にもわかるはず。直後は感情的になったとしても、時間が経てば、加害者に償いの心があれば、きっと。
逃げる・・・という行為。事故を起こした直後の動揺を考えれば、全く理解出来ないわけではないですが、その後ですよね。きちんと自首して罪を償うのか、逃げたままいるのか・・・。
「悪事、身にかえる」・・・ことわざの意味を、犯人に(生きているなら)知って欲しいですね。
by 猫たぬき (2006-12-14 04:21) 

猫たぬき

初めましてmakoさん(^^) nice! ありがとうございます。
by 猫たぬき (2006-12-14 17:09) 

民法上の時効はアリだと思いますがね。
刑法上(殺人事件など)は時効なんか必要ないと思います。

時効まで、自宅に遺体を隠し続け、時効成立後に自首したってオッサンがいましたけど。
ああなると、もはや正常な人間の出来る事じゃないですね。

「呵責」っていうのも、罰の一つだとは思いますがね。
人間ではない人間には意味の無い言葉かもしれません。。
by (2006-12-14 21:08) 

猫たぬき

おおカズぼん(^^) リアルタイムに私もパソコンやってるよ(笑)
民法上ね・・・。どっちにしろ私は「時効」ってのが嫌い。
時間は常に未来へ向かって動いているけれど、過去は消せないわけで。罪を犯したという過去は消えない。時間が経てば「犯罪はチャラ」になってはいけないと思うわけですよ、私は。
↑だい吉さんへの返しコメントの中で書いた事件ね。私も思ったよ。もはや「常人」の域を超えてる。
「良心の呵責」があるなら、一般市民の中に溶け込んで、のうのうと生きてられないと思うけど? もし犯人がどこかで自ら命を絶ったのだとしても、それは「良心の呵責に耐え切れず自分を救う」行為であって、被害者への懺悔ではないよね。だって「逃げて」るんだもの。
「罪を悔いる」ということは、自らの罪を世間に申し出て赦しを請うものだからね。それで赦されるかどうかは別問題だけれど。
by 猫たぬき (2006-12-14 21:19) 

罪と罰はホントに難しいものですよ。

呵責で自殺するようなタマなら可愛いものですけどね。
生き様は様々ですからね。

今日は夜勤が無いので自宅にいます。久々に(^^;
by (2006-12-14 22:13) 

猫たぬき

「罪と罰」・・・中学生の課題図書かい(^^)
「良心」というものが存在しない人もいるしね(--)
夜勤は辛かろうねぇ。お疲れさん。今日はゆっくり休みたまえ(^^;
by 猫たぬき (2006-12-14 23:26) 

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